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小野田寛郎さん追悼 ・ 続き

 昭和49年4月下旬。これまでのジャングル生活から、かすかな物音にもさっと起き上がる小野田さんを気遣い、末次さんはホテルを準備した。事務所の2階は和室で、利用したようだったが、詳細は判らない。28日付けの色紙にサインをいただいた時は、ホテルの和室。事務局員3人で訪問している。にこやかな小野田さんと、果物やら、料理を並べた食卓が写っている。小野田さんは和服姿。
 陸軍中野学校の同期とのことは「俣一会」といった。現在、末次さんは居らず、ご存命の方がおられたとしても91歳。小野田さん一行と松島観光をしたのは昭和49年9月15日。一泊の旅だったかどうか忘れている。
硬い様子の小野田さんを囲んで、みなさん楽しそう。何人の方が小野田さんの悲報に接したか、皆目見当が付かない、ここ2日。新聞は葬儀に関して、近親者で営む、とある。年末はブラジルに行って居られたそうな。

 50年4月18日付けのお手紙がある。サンパウロ州リベイロン・ピーレス市からで、去る12日朝サンパウロ空港に到着しました、とあって、救出及び帰還後一ヶ年の間、種々ご心配頂き且つお骨折りいただきましたことは唯々感謝の言葉さえ御座いません。あらためてお礼申し上げます。中略  ブラジルを隣地にあるものとお考えになり、、、、略
6月初めより開発です。というブラジルに到着のおしらせ。これは私の井の頭時代。今から4年程前に本屋さんの隣に昔のアパートを探しに行った。ピンク色のアパートに建て替えられて、きれいに在った。持ち主は変わっただろうと、勝手に思い、買い物をした肉屋さんも確認して井の頭公園を散策。

 小野田さんを知る共通の友人は82歳。昨年心筋梗塞で死にそうだったと。昨日電話が繫がらずいた。歯科に行って居られたそうな。
私の誕生日の前日が小野田さんの命日に当たるようになった。忘れることはないだろう。ご冥福を祈ります。

    誕生日静かなりこの先々も一・一七 追悼の日よ (阪神淡路大地震)

今も大切にしている
ホテルニューオタニで書いて頂く
今も大切にしている

小野田寛郎さん逝く

 小野田寛郎さんをルパング島に捜索に行き、帰国に導いた末次一郎さんの元で当時を世過ぎしていた私の思い出を、小野田さんの追悼を込めて記しておきたい。
昭和49年、50年は、「陸軍中野学校」という情報将校を養成する学校の卒業生、同期の方々が入れ代わり立ち替わり、捜索隊長の末次一郎さんを事務所に訪れて、フィリピンはルパング島に出掛けて行った。末次一郎さんは平成13年7月に78歳でその一生を一期とした。引き揚げ運動や沖縄復帰運動に取り組み、北方領土返還運動を促進し、安全保障問題研究会などを主宰。他に、「青年の船」や、「JAICA」の窓口となっていた。姉は「青年の船」で、仙台の短大を卒業後に、東南アジアの国々を巡ってきた。末次さんと我々の父親とは親交があって、私は学生の頃から、出入りしていた末次事務所に何時の間にか落ち着いていたが、掃除、電話番、会計など何でも担当。
 小野田さん捜索の時や、安全保障問題研究会の京都会議の頃には、永田町の一軒家、総理府(当時)今は内閣府の直ぐ下辺りに事務所はあった。岩手県東京事務所が後ろにあり、植え込みに沈丁花の花が春一番で咲いて、その香りから何時も勇気をもらっていた気がする。
 小野田さんの捜索隊の飛行機がフィリピンで炎上したことがあったが、さまざまな物資を調達する苦労が思い出される。当時は皆さん、洗濯のことなどからか、フンドシを準備した。直ぐに乾く、からだったと思うが。末次さんの奥さまは、あの時、はたして何枚のフンドシを縫ったのだろうか。私の苦労は、冬に蚊取線香を集めることだった。
お湯を注いででき上がるパック入りのご飯も、そうとう買いこんだ。事務所の中が一杯になるほどの物資が所狭しと積まれた。小野田さんに合う時のためにお赤飯のパックも準備した。政府による大捜索隊とは別ものだった。今は亡き青年探検家 鈴木紀夫さんにもお会いした。鈴木紀夫さんが単身乗り込んだルパング島。彼がいなかったら、山中で29年の間独り戦い続けた小野田さんは、どうなったかなど考えまい。鈴木紀夫さんは、ヒマラヤに雪男を探しに行き、標高3,800メートルの地点で、遭難。38歳だった。鈴木青年が亡くなった時「彼の勇気と機転がなかったら私は島を出ることはなかったでしょう」と、遭難現場まで慰霊の旅に出た小野田さんだった。若い冒険家との年賀状のやりとりは当然その時に終わった。
 あれから随分と月日が流れ去った。小野田さん夫妻と再会したのは、末次一郎さんが亡くなって、ご自宅までお焼香に訪問した時。葬儀は青山葬儀場であって、中曽根康弘元首相が葬儀委員長だった。元首相の多く、議員団の列席を見、あらためて末次さんの偉大さを見た葬儀であった。その葬儀に間に合わなかったと言って、アメリカから友人が来た。大学時代の学外活動で一緒だった、野口君(今もニューヨークで事業家として活躍)。電話で、“一緒に行ってよ、僕お線香あげたい”。東京で落ち合って、世田ヶ谷のご自宅に、伺うと、小野田さん夫妻がおられた。あれからでも13年。私は “絵描きになる!”、ために末次事務所を急に辞めて、40年。辞めても“手伝ってよ” との事務局の声に、京都での国際会議や、小野田さんの捜索に関わった。安保研の京都国際会議ではいわゆる、あご、あし、やど担当。飛行機や新幹線、ホテル、食事の人数、時間、移動時間、入国時間、出国時間に併せて、宿泊人数の加減調整など。現在、どれほど役立っているか知れない。通訳はできなかったし、今以て語学はからっきし。当時通訳担当の人達とは今も昵懇にさせてもらっている。

末次事務所で。1975年春。
義母が少し真面目に“これは誰?”と。小野田さんで、解決
末次事務所で。1975年春。

新春展におでかけください

 今日、2ヶ所の新春展に行ってきた。銀座の文藝春秋画廊は明日で修了。朝早く、家の近くを通っている“ちょいバス”を利用して出掛けたので、銀座では開店準備中の様子を観察しながら、銀ブラ。窓ガラスを綺麗に拭いている男性、荷下ろしして、お店に運び入れる男性、入口に箒をかけている男性。男性が多く働いているのを見ながら。なかなか絵になっているが、スケッチブックを持っていないので、記憶に留める。
画廊が開くまでの間、4丁目交差点を向こう側にわたって、郵便局まで、事務仕事。サンモトヤマの地下にあった郵便局が無くなっているとは知らなかった。お掃除中のお店の主か従業員か知らないが、教えてもらったユニクロ店の2階には郵便局はありませんでした。

 下北沢のスマートシップギャラリーのほうは、18日まで開催。(12日はお休み)まだ時間があります。どうぞお出掛け下さい。

スマートシップギャラリー
3枚の多田祐子の絵
スマートシップギャラリー

昨年の認定から

 昨年11月、タイランドで開催された日・ASEAN友好協力40周年認定事業/ 日タイ交流美術展覧会 の結果、届けられたバッチを新年の報告とします。12月中旬にいただきました。

バッチ
教育技能士ということですが
バッチ

2ヶ所の新春展 そして 世界平和芸術家協会展2014

 お正月7日から11日までの文藝春秋画廊での新春展と、10日から18日までの下北沢スマートシップギャラリーでの展覧会に出品。どちらもサムホールというサイズで、小品。 文藝春秋画廊には「咲ちゃん」/木花乃佐久夜毘売命(富士山のご神体)を私なりに表現したものを出品している。 スマートシップギャラリーの方は 〜旅の始まり〜 というテーマを与えられ、「わたしのフランス」 「ナイルの記憶」 「リヨン駅」の3点を。「わたしのフランス」と「ナイルの記憶」は新作。「ナイルの記憶」はナイルに浮かぶファルーカという帆船をクロッキーのそのままを描いた。 「リヨン駅」は絵のみ行ってわたしは未だに訪問しかねているが、駅のにぎわいを想って描いたもので、絵の具を買えずに、白い絵の具に、紙をちらばしたもの。少し前の作品。リヨン市であった展覧会では賞をダブルで頂戴した。「カルカソンヌの青い月」で。その頃の作品と思うが、、、。  『世界平和芸術家協会展2014』 は第5回目という。毎回出品してきたわけではないような気がするが、世界平和芸術家協会員ではある。こちらは担当者の選んだ「アルビの 広場」を飾らせて戴く。アルビも南仏の街。カルカソンヌを訪問したさいに足を延ばした処。ちゃんとしたスケッチがあるが、それはそのままで、忘れ去っている。 「アルビの広場」は30号。ミデアムサイズ。北千住シアター1010 “THEATRE1010"  であります。  たくさんの作品が会場を飾っているのです。どうかお暇と気分を展覧会にお向けください。お待ち致しております。

咲きちゃん
咲きちゃん
ナイルの記憶
ナイルの記憶
わたしのフランス
わたしのフランス
アルビの広場
アルビの広場

あけましておめでとうございます

 新玉の年。平成の御代は4半世紀を終え、半世紀に向かってあけました。25年なんてあっという間ですね。
“去年今年歩いていたり星の空”(祐子) 月がないので星空です。例年通り氏神さまの神明社に初詣。温かい元日。浜の方では風があって、幟は柱だけで、焚き火もありませんでした。消防隊員の若者たちも、こころなし手持ちぶさたな様子。御神酒を頂戴して、甘酒もいただき、半時あまり境内におり、知り人たちとのご挨拶を交わし、家路に。
夫は氏子役員で、まだ境内におります。ここ山の上には風はなく、海が近づくにしたがって海風の音が激しく聞こえてきました。
 
 さて、今年はまた元気で絵画生活が出来ますように、神さまにお祈りしましたが、みなさんにも、どうぞ宜しくお願い致します。
 そして誰もが、元気で明るい実りある一年でありますように、祈ります。

葉山の海

29日、日曜日の午後の海。

美しい海
美しい海
撮影・Mr.Fujiwara 2枚とも
撮影・Mr.Fujiwara 2枚とも

酒飲みサンタ

ちょっと忙しいらしくて、2日早くまかりこしたサンタ。温かい部屋で、お酒をきこしめして、酩酊寸前。もお今夜は空を飛べません。といった具合の、クリスマス前の暢気サンタ。

もはや、サンタは酒もさめて、居りません。

作家 故中河与一のお墓参りに小田原まで

 平成6年12月12日に亡くなった中河与一。明治30年、香川県生まれ。代表作は「天の夕顔」。この一冊はドイツ語、フランス語、中国語、英語、スペイン語、そして、アメリカの各国語に翻訳されベストセラーとなった。この一冊で、生涯をおくったわけではないが、あまりにも有名になり、そのために苦難もよびこんだ一冊である。97歳でこの世を去った。歌に めぐり来し春かはらねど迎へたる九十七才そぞろたのしき とあり、わたしは最期のたぶんさいごの、短冊を頂戴した。
清水比庵(日光市長を勤められた)の書を最も佳しとした、中河の筆も比庵風だ。随分書かせて、頂いてある。 あふことの須ゆなり志かバ波るばるとこえき志乃やま想も保ゆるか母  うち日射す宮路をゆけるをとめ子の玉乃すがたハ憂へけたしむ  このうちびさすの歌は何度か、うちびさ「ず」となって、書き直している。捨てようと為さるのを頂いた。書き損じが2枚あって懐かしい。 黄色なる黍の垂り葉乃和久ら葉のそよぎ澄みつつ月乃保里たり  いづれも私が手本としている歌だが、なかなか格調が高く、浪漫的で、とても届かない。
 中河与一には、河名千絵という名前で出した詩集に序文をいただいた。フランスへの旅の出発前で忙しいと仰ったが、書いてくださった。そして、それから、私の絵がペルーのリマ美術館に収蔵になったことをとても喜んでくださって、自分の事のように喜んでいる、大変なことと、その比庵風の字体で葉書をくださった。エルミタージュ美術館に収蔵になったのは、最近で、既に中河与一はいなかったから、画家になりたかった先生にはお墓の草を引きつつ、語りかけて来た。来年ユネスコパリ本部で展覧会があって、私にも出品要請が来ていることも併せて、報告した。お墓は幹子夫人と共に一枚の石に名前が彫ってある。幹子夫人も歌が凄いが、与一とは少し違っていて、おもしろみがある。例えば ふたのなきコップに入れ歯沈めゐて夜中にねずみが引いては困る  といった具合。もちろん格調高い歌が多いのだが。2才年上の奥さまだった。たしか「ゴッホの墓を模した」といっておられた。
 今日は朝から晴天。12日は「夕顔忌」。それでお墓の掃除をしつつ、ガーベラとバラをお供えして、自分の事を報告した。将来的には、お仲人でもあった中河与一の、我々だけの「夕顔忌」になるかもしれない、と思わないでもないのだが。「かっぱ村」の初代村長であった。果たして何人来て下さるか皆目見当が付かない。木曜日でもあって村民も来にくい日程である。ご存命であれば116才。私達も間もなく黄泉へ旅立つ。が、既に遠い遠い高みに達しておられるから、届きません。レモンイエローのマフラーをしておられた中河与一を今日は一日偲んでいます。

自慢話をつづります

 先の展覧会から一月あまりが過ぎた。時効?かな、と思い、今回は自慢話の数々を披露したい。血縁関係があったり無かったりの親戚が買ってくださったということは既にブログ済み。赤い絵を飾るとお兄ちゃんがギャンブルに走る!という娘の声に、家の中に、赤と青の色彩が欲しいの!と、決めた、お母さんの有ったあの話し。
 さて、昨年2月から3月のはじめに富士宮市での展覧会場に偶然ご来場くださった方がおられた。なんと両の目が見えず、浅間大社には随分と参詣に来られるご様子で、お友達と3人でお茶の時間を過ごそうとご入場くださった。会場が元々レストラン風で、ランチタイムには食事のお客様がこられる。その広い会場をギャラリーに使おうということで、こけら落としの展覧会であった。その目の見えないご婦人が、ここに赤い絵があるのね、あらここにピンクの絵があるのね。と会場を移動なさって“波動”を感じるお話しをしてくださった。その波動のお話しを含めて2時間あまりを遊ばれ東京の江戸川まで帰られた。もちろん好い波動を浴びたとのことであったので、わたくしは言葉にならない感動をいただいた経験をしたのだった。
そのご婦人が、今年の3月に目の手術をなさった。ひとめ、曾孫まごさんの顔が視たいと思われたそうで、失敗しても元々と思うことの覚悟ができたので、と電話があった。
さてさてである。そのご婦人が富士宮市でもご一緒だったお友達と連れだって北鎌倉の古民家ミュージアムまで来て下さったのだからびっくり。手術は大成功。曾孫おまごのお顔を“可愛いの”とおっしゃって。で、わたしのことも、“かわいいのね”と。そして、今回は他ならぬ「富士山展」だから絶対来なければならないと思われたそう。中3階まで階段を上ってくださって、私の富士山をあれこれと観てくださった。さらには一ついただきます、とおっしゃって、「うずまき富士」を選んでくださった。とても飾ってくださる方は居ないだろうと思っていた作品で、自宅に持ち帰りの作品の一つに入っていた「うずまき富士」。とてもエネルギーをいただけるの。とのこと。後日談があって、曾孫まごのちいさいお子さんが、どうしても大きいおばあちゃんに買うの、と、デパートからお孫さんが買ってこられたベレー帽が、ローズ色で、後に小さく渦巻きのステッチ、刺繍があったそうで、不思議なの、と、とても喜ばれ、あの絵は買うべきだったのね、とお電話があった。
私の喜びは、ご一緒に来て下さった方、こちらは、熱海から来られたのでしたが、この方も「祝い富士」をお買い上げ下さって、お正月の飾り物になさるそうな。初日に“赤富士じゃぁないね”と言われた、金色の富士山でしたが。
 その少し前、秋田県からご年配夫婦がご来場。2日前の夜に電話があって、わざわざのお越しとのこと。新幹線を使って1泊の日程。それだけで、済まない気のするのに、記念に一つ、と「素敵な気分」という題名のパステル画をお選びに。木地のお椀を作られ、写真も良くなさるご主人さまが、“飽きない”でしょうと、抽象画を決められたのです。
 夫が昨年3月、心臓の左上、大動脈瘤の手術を受けた際に、数居る入院患者さんの中でとても親しくなった方がおられる。その人は夫が手術室に運ばれる時に、ストレッチャーの夫に、深々とお辞儀して、いってらっしゃいと言ってくださった。麻酔薬が効いてきている夫には判らないが、わたしはその姿を目に焼き付けたのだった。夫は無事に退院。集中治療室には1日半居たのみ。3週間の入院生活。訳の判らない咳と大鼾が無くなっている。話しが逸れるから、心臓のことは以上で。で、そのなぜかとても親しくなった人は、夫よりも前に手術を為さった方であったが、ある日の検査の日に、誕生日が同じ日と判る。看護士さんが誕生日を確認する時に、偶然ふたりは相前後していて、何故自分の誕生日に金城さんは返事をするんだろうって、思っておられたそう。
で、今回の展覧会にはご夫妻で来られて、付き合って下さった、のです。

 長くなります。田舎の方のいい話を。従弟が経営の「話し処」に時々飾ってもらっているのだが、彼の同級生が一つ買ってくださったという。其の同級生が家に持ち帰ったら、母上様がえらくお気に召されたそう。で、絵の代金は自分が持つと仰って、早々にご送金いただいた。少し大きめな作品なので、この一件には大助かり。あちこちに滞っている私の文化交流など、参加、いわゆる協賛費用の支払いが、片づいたのです。冷や冷やものの国際文化交流。協賛費用に貧乏人は困り果てていますから。

今回は神奈川新聞社、毎日新聞社、タウンニュースの3紙が取り上げて下さった。
どちらさまも有難うございました。後はまたの日に。