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初夏の思い出・Paul Ambille

 1989年、5月から6月にかけてフランスはパリの北70キロ〜70.5キロのところ、クレルモンに行った。今は亡きPaul Ambille ポール・アンビーユのもとに。やはり故人の馬郡俊文氏の勧めで、エコールアンビーユ参加したのだ。宿泊のホテルから広い麦畑が続く道をアンビーユの邸宅まで朝夕歩いて通った。夫は絵を描かないが、10号サイズのキャンバス5枚と4号サイズを持ったので、観光とカメラマンと荷物持ちを兼ねて参加。初夏は夕方が長く22時を過ぎてようやく夕焼けてくる。時間がたっぷりの2週間あまりを過ごした。主婦をしないで済む。
 私は持参のキャンパスに向かって初めの1週間は迷うばかり。ポールさんの庭に庭師が入って薔薇を植えたり、整備に余念がない。「5月のバラ」や「6月の庭園」「風化」
「ポールの窓」「芝生で昼寝」「KOO」を完成させた。どうにか完成させてポールさんの批評が欲しかった私は必死だった。題材を求めて門を出ると、足下の門の敷石がすり減っていて良い具合。直ぐにスケッチ。それが「風化」になった。ある日雨が降ってきて、馬小屋だった物置に場所を移して、描いたが、あの馬小屋はホントに具合が良かった。そこで、仕上がった絵が6枚。とうとう最終日には10号サイズ5枚を広げることが出来、ポール・アンビーユさんから批評をいただいた。長い文章であった。
 夫は、途中でパリまで2回行った。一度はル・サロンに出品するという参加者の一人に、荷物持ちとして連れて行っていただき、もう一度は、エコールの途中でウイーンに行くのだが、その切符を買い求めに、馬郡さんと。馬郡さんはまとめて日本の新聞を買いこんで来たのだった。ウイーンへは「寅さん」の撮影があって、寅さんのフアンクラブに入っていた夫に、ウイーンで、エキストラをやらない!という話しが、あったから、誘って下さったフアンクラブの人人と落ち合うためにウイーンスカンジナビアホテルに宿泊。ウイーンで3日間を観光や、エキストラを愉しんだ。竹下景子さんや淡路恵子さんとのツーショットもある。「寅次郎 心の旅路」の映画の初めに単線電車が田園地帯を走る場面がある。私のふる里、若柳だ。ウイーンで皆さんに会った時にはまだ知り得ていない。映画を観た時に うんっ!知っている風景??? ふる里だった。
このウイーンまでの行き帰りのハイヤーがまた面白い経験。クレルモンにある数少ないハイヤーを雇ってドゴール空港までとばした。帰りも迎えに来てもらうのだが、相乗りとなった。見知らぬご夫婦。あちらにとっても見知らぬ東洋人夫婦。クレルモンまでの間にそのご夫婦の館に到着。シャトーである。夫人は小切手を取り出して、運転手に渡す。
私はおもわず、ヴォートル メゾン?(貴女のお家?)夫人 ウイ。 私、写真かまいません? ウイ。で、アヒルやらが泳いでいる家の周りに廻す池を手前に、館を撮影。
運転手には相乗りなんて聴いていなかったが、ハイヤーが数少ないって知っていたので、文句言わずにクレルモンに帰った。夫と面白い気分を味わった帰り道。

 翌1990年8月。ポールさんは東京に来てエコールを開催。馬郡さんの企画だ。私も参加。ここでは20号サイズを4枚仕上げた。3日間だった気がする
 モデルを示されたり、与えられるが、私は抽象だから、その場の雰囲気や、その日の天気から着想して仕上げ、批評をいただいた。ポールさんは滅多に人の絵には触らない。
ジーッと観察なさる。4枚の内一枚はタイランドの内閣府に寄贈した。
 さて、そのポールさんを鎌倉や葉山をご案内した。葉山では丁度祭で御輿を担いで頂いた。夕食はホテルで。で、明日は夫の誕生日だわ!という私に、貴女は今日は結婚記念日だ、明日は夫の誕生日だわって、と大笑いしつつ高級ワイン“ドン・ペリ”を注文してご馳走して下さった。クレルモンで丁度結婚記念日となって、この絵は夫にプレゼントという一件があり、それを覚えておられた。この日は通訳の女性と、クレルモンに一緒に行って、夫がパリまで荷物を持ってボディガード役をし、パリを味わわせていただいた友人と、我々ふたりの計5人。

ポールさんも馬郡さんも今は天界の人。先日ふる里に行ったが、八重桜とフジの花が咲き、田圃には水がはられ、早苗が植えられて、栗駒山が田圃に逆さまに映っていた。
日本はお米。フランスは麦。ある作家と、ヴァン・ゴッホの話しをして麦畑を思い出したので、クレルモンの麦畑を思い、夕日を思い出した。

 そうそう、長くなりついでに。ポールさんの門扉にロープの先に捨てられたヤカンを取り付けて、ヤカンが音を立てるように工夫し、外に題材を探しに行ったアーティスト
がベルを鳴らして、いちいちポール先生を呼ばないようにと、絵を描かない夫が面白いことを考えたのでした。皆で、もっと早くに工夫してよ!と云って終わったエコールでした。

鎌倉八幡宮で1990年夏
ポールさんと夫
鎌倉八幡宮で1990年夏

蛙の合唱

 18日〜20日にかけて私の故郷宮城県栗原市若柳に行ってきました。例の大地震で、マグニチュード7.0だった田舎です。従弟の経営する「話し処」きままやで、第2回目のミニ絵画展を2ヶ月間開催してくれるというので、13点の作品を運びました。第一回目は作品が小さい!と、コレクターさんに云われましたから、今回は10号サイズのS、いわゆるスクエアー2点に8号サイズなど加えてみました。ミニ絵画展のミニは作品の大きさではなかったのでしょう。で、数が多すぎる場合は、半分は上半期といった具合でしょうか。昨年は、宮藤官九郎さんが訪問くださったということで、写真が飾ってありました。従弟とは、小学校から高校まで一緒の学校で、従弟が先輩にあたっています。
 弟の家に2泊。毎夜かえるの合唱つきで、安眠しました。田圃が少し離れていて、ここ葉山では数少ない蛙が近くで鳴くのとは違っていました。
 3日間。親戚宅や友人宅を訪問。加えて、「川童大神」があるという情報から案内していただき、加美郡の磯良神社からの分社のいわれのある「かっぱさま」にお詣り。同好のみんなにはいづれ披露します。「かっぱ」の存在を信じているという若者に案内していただいたのです。この「かっぱ」についてはここではこの位に。
 
 18日午後地震がありました。M4〜5。長かったので、不安でしたが、M7を経験している人たちは怖そうではありませんでした。毎日のように地震があってまだまだ落ち着いていない地球です。その地球からの贈りもの、蕗や三つ葉を採取。自然の恵みをいただいております。
 弟の家、実家で祀っているお不動様や観音様にも何時ものようにお詣り。絵画でのたつきが経ちますように、と。

「川童大神」の扁額
新たな発見・場所は秘密です
「川童大神」の扁額

久々の雨

 蜜柑の木に花がたくさん付いているのを見つけ、肥料を遣ったのが3日前。花壇のさつきの花が咲かないと言う夫には、これから咲く、ということを教えて、萼の、(さつきの“うてな”は茶色をしている)そのなかの蕾を見せてあげた。同じ日に「葵」の青葉を5株上賀茂神社に送った。葵祭が近づいているので。今年も良く育ったから、葵プロジェクトの里親としては、勝手ながら合格。翌日事務局の方から立派に育てて頂いてといったメールを頂戴した。
 今日は雨。タイミングの良い雨に、蜜柑の木を見やると、花が咲いたり、蕾が膨らんでいる。カラーの花は今のところ4本咲いている。
 庭に直植えのシンビジュームは四方シンビジュームが、3本。根岸シンビジュームは2本。「四方」「根岸」とはくださった方の名字からとった。
居間では、蘭が咲いている。3度目に入っているので、いただいた時のように立派には咲かせられず、「北白川」「清明」「願成寺」共に1本づつ咲いている。「北白川」は2本咲いていたところを、夫がカーテンを引く時に絡めて、1ッポン折ってしまった。

 さて、今日は「今後の予定」を入れました。先日から描き始めております。先ず、世界文化遺産に登録間近な「富士山」を。
これは、美術年鑑社が「日本の美Ⅴ 富士山」を11月に刊行予定で、2000年に刊行した「日本の美」シリーズ第一弾「富士」の第5弾で、再び取り上げるというもの。
私にも作品掲載の案内があって、“るんるん”とピンクの富士山を描いている。

夫が黄菖蒲が可哀想というので、載せます。毎年、邪魔扱いにもかかわらず咲くのです。今日咲いたさつきも。 ではまた

とっても強いのです。我が家では雑草扱い
今年はとても多く咲きました
とっても強いのです。我が家では雑草扱い
さつき 
昨日の今日の花
さつき 

Merci beaucoup Monsieur MARBLO

スペインから生まれ故郷のフランスに戻って、ホテルと美術館を始められてから、かれこれ2年は過ぎただろうか。その MARBLO さんから4枚目の版画が届いて、半年が過ぎた。また「金城ミュージアム」が充実した。お礼のお手紙はまだで、そろそろ書かねば。中途半端な英語か、出来の悪いスペイン語か、はたまたそれ以下なフランス語か。
馬がとても素敵でおしゃれで、かわいいMARBLO さん。取り敢えずブログでありがとう。

ドンキホーテさん
M.MARBLO
ドンキホーテさん

芸術文化奉納受納証 いただく。

 5月1日。日光東照宮から「芸術文化奉納受納証」が届き、添えられた特別祈祷神璽なるお札を頂戴した。受納証には“永く当宮に架蔵いたします”とあった。ご報告いたします。

畏れ多くも
頂戴したお札です
畏れ多くも

私の四月

 4月は、油絵はおろか、Oil pastel も描かなかった。なにかと愉しい日々をおくった4月を振り返ってみる。先ず、京都の知人、夫が御姉様といっている人の老前整理の手伝いに行き、形見分けの仕分け。物の多い方で、随分捨てたのよと仰るが、最後の判断は他人には出来ず、取り敢えずは残したい人がいる物だけと、まだ捨てる訳にはいかないものを、仕分けした。勿論まだまだ荷物は残っていたが、3日間の日程でほんの僅かばかり手伝った。なにしろ到着第一日目は午前3:45分にお布団に入るまでおしゃべり。11:35分に八条口でピックアップしていただいて、お昼のお総菜を買い、お昼ご飯を豪華に食べ、夕方は銭湯に行き、といった状態。2日目は9:00に朝食。
お昼抜きでかたづけましょうと、午後2:00まではお茶も飲まずにいたが、炊飯器に残っている前夜のご飯で小さいおにぎりを適当に作り、休憩。引っ越し先の天袋に納めるお茶道具のあれこれを運ぶ。お夕飯を食べに入ったお店は何故か外国の方々でいっぱい。ここで「円安」を思い知らされる。ご飯の量が少ないので、情けないね、とつぶやかれる79歳に、おかわりしましょうか、と云わず終い。それで、夜10:00には、お腹が空くから寝ましょう。ということに。
 3日目、話しが伏見稻荷に及び、まだお詣りしたことがないということから、帰りがけに行きましょう、ということで、見つからない物を探し、思わぬ所にしまってあったことに笑いあい、箱詰めを急ぎ、昼ご飯は、私が京都で展覧会を開催中によく行った、お好み焼き屋さんがいいと、云われ、ご飯も注文、味噌汁も注文。ご飯の量が前夜のようには少なくなかったので、お互いに安心の心地。3:00頃には探し物もみつかりガムテープで箱を閉じる。小さからず、大きからずの箱を道々で宅配依頼。一つのけじめが付いたと云われ、私のために伏見稻荷社詣り。境内は広く、やはり円安利用の外国人旅行者がなんとも多く、ここは何処っていう感じのお稻荷様。夕刻6:00近い。鳥居をくぐって、ヨーロッパの人たちがぞくぞく歩いている。私は池の畔で拍った柏手のこだまが示してくれる教えに有り難く、お詣り。この池の畔に何時もいるのという不思議な人にいろいろと教えて頂く。外国の人が奥へ奥へ小径を進んでいくと、ちゃんと英語で何処を目指すのか聞いて対応していた。スペインからの旅行者も多いということだった。
 2ドル出してもタバコが買えないと、円高の時には日本に来なかったニューヨークの画商・Mr.Jainを思った。今年は来日あるかなぁと。

 13日は日光東照宮・客殿での奉納の儀。男体山を仰ぎ、二荒山神社、日光山輪王寺に参詣。名物お土産らっきょうのたまり漬けを買う。この朝早く、淡路島で地震があった。知り合いには幸い被害が無く、取り敢えず安堵。日帰り強行ぐん。日光線車内もカップルは皆外国人でした。右も左も。

 20日、横浜。県民ホールであった”日本におけるイタリア2013”に出品中で、イタリア作家作品を観ましょうと、出掛ける。パーティがあって、10人程のイタリアのかたがたが居られた。イタリアブースの作品群を鑑賞。うっかりメディチ文化協会正会員である自分の事を忘れてしまって、元ソフィァ大学の学長と仰る神父さまとのみお話しをした。日本語を話されるから。出品作は「花かざり」。担当者さんが選んだが、暢気なピンクや黄色の絵は無いから、社会的風刺性の強い作品群が列ぶイタリアブースの重みには、軽くお付き合い出来ず、ワインの置いていないパーティを少なからず恥ずかしくガッカリして、帰宅。今思うに、会釈を交わした女性とは名刺の交換くらいは出来ただろうに、反省、です。私の絵のある場所にご案内するには階段を上っていただかなければならず、などと、考えてばかりいた。

 23日24日。被災地支援で二本松市に。夫と、友人の総勢5名。農家民宿を始める知人を応援。
 まだ整っていない様子をみんなで見て、あれこれ加勢。周りの百日紅の花が咲き誇る頃にはツアーを組んで来る、という旅行業を営む友人は、飲食店も営み、料理指導に忙しい。我々は百日紅の記念植樹をしようと呼びに来て下さった、”するすべりさん”と、山の頂に。夫もスコップで小さな穴を掘り、記念植樹。京都からお客さまという4人組もおられ、8本の百日紅が新しく植えられた。内一本はこの夏には咲くだろうという。ツアーで来る予定の料理指導中で植樹祭には来ていない彼にその一本を割り当てる。京都からのお客様は、戦争中の疎開先を訪問中であった。そのとき住んでいた家は最早無い。今は、ビニールハウスがある所、という。過疎の地域。ご近所の人は、数少ない家に灯りが点っていると嬉しい限りと。そう語る人の奥さん手作りのおにぎりや漬け物をご馳走になる。夜には、八宝菜を差し入れして下さった。そうそう、朝はご主人が、おにぎりに味噌汁まで添えて、坂道を上ってこられたんだった。昨夜置いていった、車をとりがてら。おにぎり、多すぎて、みんなでそれぞれ夕飯にといいつつお土産にした。ラップで包んで。明日は雨だという、話しはやがて本当になった。桜吹雪まみれの車で、東北道を帰る。
行きは常磐道を北上。今が桜の見納め時、数多い桜を堪能。山笑う状態の福島だった。

 26日青梅市の友人宅に筍掘り。今年はイノシシが出没していて、あまり収穫に期待しないでという友人夫妻。なにしろ鼻が低いところにあって、利きめの良い鼻を持っているイノシシとでは勝負にならない。それでも例年配る人6人ほどには配って周り、我が家で、6本いただいた。なにより友人の手作り料理をいただくことが一番の愉しみだから、筍は少なくても、、、、。27日夜、二本松市に一緒に行ってくれた友人、旅行業者をよんで筍ご飯を一緒に食べたのです。26日夜頂戴した石鯛2匹とカワハギ2匹を、鱗取りと、かわはぎで、すっかり腰が痛くなった夫は今日28日、昼ご飯前に昼寝をしています。

 さて、五月。これからは絵を描きます。ゴールデンウィークが過ぎたらですが。まず、富士山を!です。

古戦場の桜・ライトアップは今夜でお仕舞い。
二本松市
古戦場の桜・ライトアップは今夜でお仕舞い。
14夜の月
明日は雨らしく朧月
14夜の月

東日本大震災復興美術展覧会・日光東照宮・客殿

 昨日、早朝の電車を乗り継ぎ「東日本大震災復興美術展覧会」及び、「日光東照宮被災地復興祈念芸術奉納」の儀に参列のため日光に行ってきました。日光東照宮及び タイ王国赤十字のご協力があり、タイランドからは王族のソムラップ殿下(WAC会長)をはじめアヌワット・ブーンニティさん(WAC常任理事)、SUREEさん(各種アドバイザー)とSUREEさんのお孫さま、イベント方面の代表の方等5名のかたをお迎えして、日光市長代理・副市長さま、日光東照宮宮司・稲葉さまのご挨拶をいただき、多くのマスコミ方面の取材もあって、一時間20分のセレモニーでした。揮毫の「咲笑」(さくら)はお若い京都の書作家の方がなさいました。  社務所のある客殿から階段を上り、曲がりくねった廊下を渡って、一般観光客のかたは入れない“将軍ご着座の間”に。この将軍ご着座の間で、主催者、協力者、展覧会出品作家にお祓いの儀が執り行われました。  土曜日とあって、拝殿は観光客で溢れていました。庭隅には僅かに雪が残っておりましたが、温かな一日でした。  直会の饗宴の前に、奉納作家には受納書のお手渡しの儀があり、神官さまから各人が「受納書」をいただきました。  受納作品には受納番号が額の内側、絵の左下に真鍮でしょうか、既に取り付けられておりました。長く東照宮内に保存していただく「花回廊」と別れの一時を持ってきました。

奉納作品・左下に真鍮の保存番号
「花回廊」
奉納作品・左下に真鍮の保存番号
展覧会出品作
「スピードに乗って」
展覧会出品作
保存して戴く作品と
別れ
保存して戴く作品と
晴れ上がった日光
男体山
晴れ上がった日光

葵の花

 今日二葉葵に花が咲いているのを見つけた。昨年よりも花数が多い気がする。5月15日の葵祭までには昨年と同じくらいの株を送りたいと、見守っている。葵の里親をしているので。

二葉葵の株
ここからの成長がなかなか
二葉葵の株
釣り鐘状の花
桃色の小花
釣り鐘状の花
同じく
下向きです
同じく

日光東照宮に奉納

 ごもったいないことに、日光東照宮・客殿での展覧会展示に併せてご奉納者の一人にさせて戴いた。推挙あってのことだったが、返事が遅れた。
本当に勿体ないことである。作品は「花回廊」10号である。地球上が次々に咲く花で回廊になっている。風に運ばれるはなびら、水に流れるはなびらをあしらって表現した。花は無心に咲く。風も無心に吹き、水も無心に流れる。私も無心に絵を描きたいものだ。それがなかなか。
本日午前中に梱包して、発送した。この三日間居間に改めて飾り、嫁入りする絵を送り出した。4月13日に、奉納の儀が行われる。参列の予定だ。

我が家の壁の「花回廊」(上)
日光東照宮行きの前
我が家の壁の「花回廊」(上)

彼岸明けを前に

 春の彼岸が明日で明ける。今ここ葉山では桜が満開。辛夷や連翹、椿、らっぱ水仙、それに花桃も咲いている。なんだか目移りして仕方がない。桜はもっと後の開花がいい。
辛夷の白い花や連翹の黄色の花が終わって、花桃のピンクの花々が消えてからの登場がいい。そういえば雪柳の花も盛んに咲いている。なんだかもったいない今年の開花である。寒い冬から一気に初夏のような日々が続き、一斉に花が咲いた。3月6日に河津桜を観に行ったのだから、間が欲しかった。勝手な話しだが、まだお弁当を作って花見に行こうという気分が湧かない。
 さて、本日、日光東照宮に奉納の作品を決定した。「花回廊」に。
 京都は嵐山大悲閣千光寺に奉納しましょうと準備中だが、こちらは本殿がまだ落慶にいたって居らず、100号サイズ2枚の題名は既に決めてあるが、どの位先の話しかは判っていない。大悲閣千光寺は江戸時代の大豪商角倉了以を祀っているが、大御所、日光大権現さま家康将軍に御朱印船を赦された豪商だった。千光寺の客殿には大きな大きな家康将軍の御位牌があって、思わず手を合わせて参拝した。ちなみに千光寺には2度拝観している。
 この“千光寺に奉納”には、その前に日光大権現様へのご奉納がなければならなかったらしい。今日に至って納得。
余談だが、御朱印とは大将軍にのみ赦された印のことで、家臣は皆墨にて花押、書き判を用いた。今日のように誰でもが朱肉を用いて朱印を使用出来なかった時代のことでした。
 また、日光山輪王寺には知人がお勤めしておられることから、いつの日にか、奉納の儀に及びたいと願っている。

歌を一つ
ポジションで精進波羅密 忍辱と禅定布施し 知恵にいたらず

ポジション=自分の立ち位置
精進=いろいろなことに努力すること
波羅密=彼岸
忍辱・にんにく=わがままを言わず、耐えること
禅定=心を落ち着かせて自分を見つめ直すこと
布施=自分のものをこだわりなく他へあげること
知恵=(持戒じかい・規則正しく生活すること)以上の五ッの行いを通して完全な悟りを開くこと