7月26日

 今年ももちもちの木にたくさんの花が咲いた。蝶が来ていて幻想的になる午後4時ころは見事だったが、もはや花が終わっている。
 田川市における展覧会の準備にはいる前に祭りがある。氏神様は神明社さんで天照皇大神。今年は8月10日に本神輿のお渡りがあることになっていて、例年通りに
ご近所の方方とお振る舞いをする。わたしはゴーヤーチャンプルーやおだんごを作りさくら飯を作る予定。さくらめしは鮹めしで鮹と一諸にご飯を炊くとほんのりさくら色に炊きあがる。夏の一瞬の祭りだがいつも神様のお陰や仏のお陰にあずかる気のする今日だからいよいよ身も清めて暑い夏を送りたい。
 京都の上賀茂神社で引いたおみくじのお力は翌年のエルミタージュ美術館収蔵につながった。今も大事にしてお力を頂いている。7月5日は五十鈴川での禊祓いを。そのあとで
御正宮に参拝がかなった。かたじけなさに 涙こぼるる のです。

   しめやかに 神の冥助を 思ひゐる 生あることの われの春秋

   うるわしき 神のみしるし 日々在りて 虫めくわれに 助成あれかし
                                        
 とこのような今日です。

 今夜は友人のお父上が亡くなられて、通夜に、戸塚まで行って来たところです。

旧歴では6月15日

 明日は旧暦で6月16日、望月になっている。今夜の月は木々の上からまだ登って居らずに見ることが出来ない。昨夜の月は木々の間から、そして雲の間から眺められた。もうそろそろ梅雨あけだろうか。夏の月であっても眺めたいものの一つ。冬の夜空とは違った角度にあって山の木々にかくされて見えにくい。二階から見ても木にひっかかっている。
 さて、ようやく夫の会社の決算が私の手を離れた。会計士さんのところに書類を発送したので、今日はバンザイである。84円あわなかったが、探しきれなかった。何かの計算違いがある。回収と未回収、払込手数料?とにかく判らない。税金には差し障りのない金額。何日も悩むほどもない。でしょ?
 明日から絵にもどって未完成作品と格闘しよう。田川市での展覧会のDMも未発送のままだ。そろそろ九州方面には出しましょう。
今朝の歌から

 蝉時雨にはかにふりて 神々のお悦びときく 伊勢の御社

御正宮を参拝の後の午後4時、いっせいに、おおくま蝉が鳴きしきったのでした ワシワシワシと

田川市における展覧会のDM

8月21日〜11月24日まで  現代美術ギャラリーto.ko.po.la  (10月2日〜展示内容が変わります)
8月26日〜31日まで  田川市美術館  30日(土曜日)は午後7時まで開館
8月30日 18:30 〜レセプションパーティ  to.ko.po.la にて

7月5日 伊勢神宮内宮 御正宮 正式参拝

 朝5時半、五十鈴川の清流に身を沈め気を鎮め 禊 を行う。厳寒期での禊ではなかったけれど、初体験の身には良かったのかも。冷たくなく体温に近い水温。丹田に“祓戸の
大神”を呼び込んで鎮まること20分程。若い神官さんの指導の元、事前の準備が長かった。もう少し五十鈴川に浸かっているのかと思いきや、であった。
 9時半、内宮の御正宮に玉砂利を踏みつつ厳かに二礼二拍手一礼。この御正宮の内側まで入っての参拝には“かたじけなさに 涙こぼるる”(西行の歌  なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる  この歌はきっと意味が違うはずだが=西行法師は璋子中宮に道ならぬ恋をいだいていたからそれが元で出家する )
のであった。
 神楽殿では舞を3舞台。この日は前日にも増しての暑さ。しばらくは冷房の利いた大神楽殿で御巫さんや神子さんの舞を篳篥、笙の音、鉦の音で涼む。
 この日に企画された参集殿での「奉納舞楽 アマテラス」については我らがかっぱ村公報に書きたいので、ここでは省略。
 いのちのふるさとへ誘われるままに 伊勢神宮内宮 ご参拝の儀、御奉納の儀に参会したのであった。
 直会の昼食時に頂戴した響膳の三方と素焼きの器四枚を眺めつつ新しい出会いの数々に思いを馳せ、あらためて西行法師の歌の一節 ”かたじけなさに 涙こぼるる”のです。

 

6月28日

 最近は冨に古くからの、と言ってもせいぜい20年前だが、とにかく以前知り合って、年賀状のみのお付き合いなどといった方との再会がある。一件のみは36年ぶりという、とてもそれはそれは懐かしいものがあった。女友達であっても、待ち合わせの時間には、ドキドキした。“待ち合わせ”という絵が出来たけれど彼女はそのことはご存知ない。
 この夏、田川市で45回目になる展覧会ができるが、これは15年前にニューヨークでの出会いがあってのこと。年賀状のみのお付き合いだったが、展覧会場の隣の部屋に多田祐子の絵画があったらなー、と思ってくださったことが実現する。彼女は妄想している、と言っておられたが、それが2会場での展覧会、現代美術ギャラリーto.ko.po.la と 田川市美術館での展覧会になった。8月21日からのスタートで、11月24日までの長期間。市美術館は8月26日〜31日までだが。そろそろDMが出来てくる。
 先日6月22日のシャンソン歌手東丘いずひ のコンサートに行ったがここで思いがけない人物と再会。私が31才の頃に銀座のはまのや美術サロンで第9回目の展覧会を開催中の時に偶然観に来られた方があって、私の絵にいたく感動なさったらしく、芳名帳にメッセージを残されて翌日も来られたのだが、翌年からはその方の甥御さんが展覧会に来られるようになり、やがてその甥御さんは青年海外協力隊員としてセネガルやチュニジアに赴き、お会いすることも稀になっていた。それが、古賀政男記念館でのシャンソンコンサートで、ばったり、びっくり、どうしてここに、とお互いが長い間の無沙汰詫びをしたのだった。で、近年私の絵画がエルミタージュ美術館に収蔵という大事件があったことを伝え、おじさまには是非このことの報告をとお願いしたのだった。甥御さんの彼は最早40才をすぎたものかどうか判らないが、以前と少しも変わってはいなかった。
 さて、昨日一緒に、「かっぱ村」の公報発送準備をしてくださった友達は、やはり23年ほど前にご主人の焼き物、“器”を売っておられ、当時まあいわば沢山買った立場の私と友達になった。それがその陶芸家のご主人が突然亡くなられて、お店もなくなり20年程が過ぎた。それが3年前に横須賀の街で偶然会って、かっぱ村にも入村。かっぱ村30周年記念のTシャツをデザインの上に作ってくださった。ちなみに今かっぱ村は発村33年。彼女、今度は私の絵画を買ってくださったのだ。2年前のこと。
 今日は以前葉山に住んでいて、よくお昼ご飯を一緒に食べたり、短歌の会で勉強したりした“ひろこ”さんと思いがけずに会った。彼女も私の絵を何枚か持っているコレクターだ。新しい名刺をお渡しした。エルミタージュ美術館収蔵作品を印刷してある名刺を。夕刻だったからゆっくりとはできずに、逗子駅までの間に車の中でのおしゃべりをお互いに早口で、近況報告に終わった。
 なにやら古い友達というものもとってもありがたいもののひとつであることよ。ほんわか、ほんわかのこの頃。

ヌーボージャポニズム

 今、ヌーボージャポニズムと称して“日本ばやり”だが、'97年9月のフランスにおける日本年、翌'98年の日本におけるフランス年と続き、横浜で開かれ日仏現代美術博では、かの有名なフランソワーズ・イカールさんからの賞や建築界の大御所クリスチャン・ラングロアさんからメダルをいただいた。'99年にはミレニアムジャパンウィークがフランスのリヨンであって2.000年大賞とオーディトリウム賞のダブル受賞を受けた。フランス以外の国々でも様々な催し物があった中で、パリ国際芸術祭は何処が主催・企画したものか調べる暇がなかったが、仏側のグラン・フォン・ブラン協会から特別名誉作家認定をいただき、芸術功労賞を受賞したのは2002年7月。
 さて、本日6月19日の朝日新聞で、元駐仏・駐印大使の平林 博氏が、「首相は国家ブランドを高めよ」という事を書かれ、来る洞爺湖サミットでの首相に対するエールを送っている。笑顔で世界に向かって話しかけてほしい。さすれば日本のイメージが上がるだろう。首相の立ち居振る舞いがブランド強化への一歩になる。とあり、フランスは国力はトップとはいえないものの国家のブランド力は抜群だ。日本は持てる経済力や文化力ほどのブランド力を発揮していない。とおっしゃっている。
 徳川幕府の鎖国制度260余年は日本を世界から隔離したことで良いこともあったし、開国が良かったことも明白であって、今日の日本が繁栄を続ける文化国家にほかならないのは喜ばしい限である。
 しかし、国際文化交流を続けてきた身の自分は、外務省の外郭団体がいう“政府にはとてもお金が出せないので、民間の力をお願いしたい”とおっしゃってはばからないのには、私の耳には落胆の祝辞であって、もはや20年に渡って国家ブランド力を高めようと”笑顔”も振りまいてきたものには、不快な一言であった。
 たかひかるひつぎの皇子(みこ)、皇太子さまはにこにこと今ブラジルに渡っておられ, 国家ブランド力を発揮なさっていらっしゃる。比較するつもりなど以ての外なれど。
 世界中が日本に注目の近年、ヌーボージャポニズム、福田首相しっかりね!

6月14日 岩手・宮城内陸地震

 昨日の朝つまり14日に起こった震度6強の「岩手・宮城内陸地震」は、今日になって衝撃も新たになった。地震直後の連絡で、私の実家は大丈夫だった。停電しているだけです。という甥からのメールや、昼過ぎの弟との携帯でのやりとりでも大丈夫とのこと。どの程度の大丈夫かは私にはわからなかった。まあすこしは物が落ちてきたりはしたのだろうと、想像した。ニュースではしきりに栗原市の名前が出る。栗原市は3年前に10ヶ町村があつまって発足した。その中に私の生まれた若柳もはいっている。9時半頃から、地震お見舞いの電話が入り始めた。みんな心配をしてくださる。ニュースでは余震も伝えている。奥州市にも知り合いがいる。みんな無事だろうか。そうそうTELは使えない。緊急連絡等にじゃまをしてはいけないと冷静になってみる。
 夜になって、従弟にもTELが通じる。校長先生の彼の学校は体育館の窓ガラスが一枚われたくらいという。若柳にある私の母校からメールが入っていて、ここの小学校は理科実験室の器具類が落ちて割れた程度の被害とのこと。その程度で済んで良かったと眠りについた。亡くなられた方々や、まだ見つかっていない方々もおられるし、駒ノ湯温泉の惨事もあったが、心静めに読みかけの本を読みつつ。
 さて、15日の朝刊を開くと、大きく崩れ落ちた道路があってここは昨年の秋、車で通った事のある道。ご案内いただいた人の家も此の当たり。慌てて
電話を。幸いご無事。少々家が傾いたとおっしゃる。目と鼻の先とも。朝早い時間で土曜日ということが幸いしたかもしれない。そうそう車が通る道でもない。紅葉の季節なら走っている車が多かったかもしれない。しかし新緑を見にバスを仕立てて行かれた方達がいらしたから、なんともいえない。
この土砂に埋もれた何かがあったかもしれない。今ニュースが駒ノ湯温泉の3名が遺体で見つかったと伝えている。関係者にはお悔やみを申し上げます。
 私の姉は高校時代に山岳部で駒ノ湯にはよくお世話になっていたし、知り合いの高校の先生には後輩がここにいるとのこと。泣き虫の先生の後輩かもと思うと、身近な想いの気の毒さが在る。
 若柳の友達は藏の壁が落ちたり、燈籠が倒れたという。もう一人は金成というところに住んでいるが、コレクションの大きい器がふたつ落ちて割れたそうな。まだまだニュースがたくさんの怪我人や行方不明のいることを伝えている。
 仙台市に住む知り合いは、洋服ダンスが倒れて、皿類も散乱しているが、もう慣れてしまったから、一週間位掛けて片付けるよ。と言ってガッカリしていました。皿類というのはお店のことで、積み上げている皿がまたもや割れてしまったもので、慣れたというのは、宮城沖地震があったり、30年前にも大きな地震がありましたから。
 地震は本当に怖ろしいです。気を付けるというわけにはいかない自然現象。被災者にお見舞いを申し上げるしかない。そしてお見舞いTELをくださったかたがたにはお礼を申します。

6月13日金曜日 happy Friday

 13日の金曜日は、Happy Friday というとニューヨークで教わった。今日はHappy friday よ!って自分の絵の売り込みをしたかったが、お天道様がおちついていて、風もないので、先日届けてもらったキャンバス30枚に地塗りをした。ベランダいっぱいに並べて。5回ほど塗って、18センチあるベランダの
手すりにも並べた。たいわんリスが歩けないようにと。午後3時過ぎ出掛けて用事をすませ、夜露が落ちてくる前に仕舞おうとすると、なんとたいわんリスが歩いた跡がくっきり。せっかくわたしは手すりには色を付けないように気をつけているのに、両手両足の裏に色をつけたままうろうろしたらしく、手すりには本日の地塗りの色、コンポーズブルーがきらきら。細い電線を渡っていくリスに厳しい目を向けるもあのリスとはかぎらない。
 最近の多田祐子は自分の絵画が1,000年は持ちこたえられるようにと、地塗りから気をつけている。それを知ってか知らずか、足跡を描き入れてくれた。愛する国家のため、国力を少しでも支えんと考えているというのに。最近は経済的に困難を来しているとはいえ、源氏物語1,000年の今年にあやかって、私もこの先1,000年を思って制作、創作しているのです。My God に捧げんと。

6月10日 日印芸術神話大賞

 昨年の2007年はインドとの文化協定締結50周年に当たり、いわゆる、インドにおける日本年でした。わたくしはそのことは知らなかったのですが、文化交流の線から発行された“日印芸術幻想伝〜神話に記されし和の継承者たち〜”という分厚い文献、美術誌に、私も推薦があって、作品を発表したのでした。私の担当者に絵の選考を任せ、数ある中から、“桃花の里”=つきのさと(と読む)を選んでくれたのでした。掲載料が要るので、何回か断って、それでもインドということもあり、仕舞いには承諾した一件です。ニューヨークで常設画廊としてお世話になっている画商さんがインドの方。2001年9月11日の大惨事の直ぐあとの個展では、ホテルをキャンセルさせて、長いこと私をご自宅に泊めてくださり、毎日バスとサブウェイをご一諸したのです。バスの中から見ると大惨事あとからはまだ煙が立ち上っていて、悲しい気分が押し寄せてきた。で、インド、とてもお世話になっている。なにかしらの繫がりがある。
 というわけで、発表した作品に、賞状が届いたからびっくり。表彰状があるということは考えなかったのです。文献だから。実行委員会での選考会議の結果ということで「日印芸術神話大賞」をくださった。もう一週間は過ぎたろうか。桃花の里、つきのさとは、一面の桃の花で、大きな丸い月があるだけ。月が桃のはなを照らすのか、桃の花が月を照らすのか、といったところ。まあ日頃悪態をついてばかりいる多田祐子にまったくもってありがとうございました。ところで、もう一つ賞が来るらしい。のです。
 5月24日〜27日まであった世界芸術競技in北京2008/北京市 における展覧会が終わった。四川省のあの大地震があって、展覧会どころではなかったろうに、昔あった芸術の方面でのオリンピックを覆活させようという企画が昨年からあったらしく、私も持ち出されたのだが、これも大いに悪態をついたあげくに出品した。北京に行った関係者さんからの報告では、なにやら表彰状が届くらしい。正式にはまだなのでなんともいえないが”昇龍賞”といった賞らしい。出品料が終わっていないので、戴いたとしても気がひけることだ。こちらの方の作品は”海辺の調べ”。明るい良い作品なの。
この2点は、先のが30号、後のが20号サイズでした。後の方は話しだけでもありがとう。では今日はこの辺で。

6月7日 庭に咲く花

紫陽花の葉が尺取り虫の餌になり、すべて葉脈のみになってみすぼらしく見えて久しい。餌の紫陽花の葉がなくなって尺取り虫は何処へ行ったのだろう。
さて、虫は蝶になると思うのだが、尺取り虫はそのまま?それとも変化してなにに?そんなことを思いめぐらしているとき、紫陽花はみすぼらしい葉脈の
脇から新芽を育んで新たな葉をつけていることに気がついた。なんという健気さ。今朝夫も気がついたらしく、新たな小さな葉を育てようと、みすぼらしい
葉脈を剪った。丁寧に。今からでも花が咲くものかどうか。径の反対側に植えた紫陽花は今咲いている。山土の所為で花の色は“白”。青い紫陽花をいただいて挿し木にしたのは20年以上も前。以来花は白に変わり、うっすらと水色やピンクをおびる。道行く人が白い紫陽花をめずらしそうに眺めて通る。
ここは腐葉土で山土ばかり。肥料をやらないわけではないが、酸性土で白い花が育つ。いまカラーの白い花がやはり白い色をした露草の間から咲いている。
露草はふつう紫か青。春早い時期には二輪草が白い花を付けてたくさん咲く。雪の下も白い花をつける。今はドクダミの十字の白が、露草とは分け合って
右側に咲いている。もう少し右サイドには白詰草があって、この白詰草を私は増やそうと苦心するが、駐車場なので難しい。そういえば、花壇には今さつきの花が咲いている。忘れたのかと思いきや6月にはいって咲き始めた。陰暦では今が5月。今日は5月4日。宮城の北部から父が挿し木で育てて送ってくれたもの。向も今頃咲いているのかもと思うと、これもまた、いじらしい。花壇の中の花はピンクが多い。斑入りや縁取りのある花もある。ピンクといえば
もう一本というか、一株の“源平下野”が咲いていて、これは濃いピンクの花のみ。源平のうちの”源”のみか?ゲンペイシモツケ、ピンクが平なのか白が源なのか判らないまま株は年々大きくなっていく。夫が地植えにしたジャーマンアイリスは紫の花を今年はたったひとつ咲かせた。梅雨入りした頃に雨の重みが大きな花の中に加わったらしく、早々に倒れて終わってしまった。やはり地植えのシンビジュウムは今はドクダミの間。花は終わっている。
今朝はカラーの花を一本失敬して飾った。虫っくいではない完璧な数少ない一本。梅雨の中休みの土曜日です。