地球を護る美術展東京都立産業貿易センターで開催
銀座画廊美術館は変更になりました
銀座画廊美術館は変更になりました
江戸時代の浪人ものや岡っ引き、はたまた裏同心ものを読み続けて、やがて弥生。確定申告の事も気になりながら、桃の節句や啓蟄が近づき日差しが強まるなか、恒例の桃色
五目ご飯を5回作った。16軒分宅配をお願いして、如月もお仕舞いなのでもう終わりです。桃色五目はブルーベリーで作ります。ブルーベリージャムがあとわずか。私の春の生理現象に夫は付き合わされて5回も食べ、いや、今夜は食べた内に入らないから4回になるけれど、いずれ明日のお昼には食べさせられる訳で5回になるはず。
3月3日にお届けでは世の主婦の方々に申し訳ないから、2月中のプレゼント。
いまここで、嬉しい電話。コレクターの一人、同級生から “絵を買うよ”。って。何という吉報。次のカタログを作るまではいかないが、兎に角今ある支払いのあれこれが出来そう。国際交流の出品料や絵画雑誌掲載料、額縁、画材、年鑑社のカラー掲載料で消えてしまうが、滞っていたから、何とも嬉しい。今日2件あった出品の連絡は断った。今の私には出来そうにもない。最も大きいメセナが消えたのだから。とにもかくにもありがとう、同級生の奥様に感謝。お買い上げの絵は3月下旬に 東京都立産業貿易センターで開催の「地球を護る美術展」 に出品しているので、お届けは4月になります。さて、カタログを作りたいと思っていますが、その訳は8月26日からの福岡県田川市美術館での展覧会と、その近所のギャラリーto.ko.po.la さんでする展覧会のためなのです。田川市美術館はとても広い会場で、ほとんど手持ちの作品を全部運びます。これから倉庫の中の大きな作品を点検します。to.ko.po.laさんはもしかすると3ヶ月間の長きに渡って開催してくださる可能性があるので、この件も嬉しい限です。たとえ1ヶ月としても有り難いです。お話を持ち上げてくださった女性は14年前にニューヨークで出会った絵画教室の先生。ご自分の指導する子供達の絵画とともに私の絵があったらいいなー
と、思われたそうで、それが実現します。遠くからそんなことを思っていてくださる方がおられたなんて、びっくり! 今彼女はそのことで走り回ってくださっているのです。有り難う。
長い間ブログをご無沙汰しておりましたが、江戸時代の読み物を読みふけって、一方では田川市のことに神経がいっておりました。また、23日の皇太子誕生日の土曜日に、甥の一人が赤坂の氷川神社で結婚式を挙げました。田舎から弟が来まして、我が家にも一泊。しみじみと厳かないい結婚式だったことです。午後から大風が東京に吹き荒れたあの日でした。翌日も天候は大荒れで、弟は仙台まで帰るのに7時間あまり掛かったようでした。仙台に住む孫の“おくいそめ”に予定より6時間も遅れての一日でした。お疲れさま。そんなわけで、長い冬が終わります。シリアに行っていた我らがMr.FUJIWARAも無事に帰ってきました。
あっ、ドイツのカールスルーヘのアートショウが突然私の予定から消えたのは、ニューヨークの画商さんが抽選ではずれたということを2月10日になって言っていたからです。ちょつとがっかりでもあり、すっきりでもありました。全ては貧乏の所為です。ではまた。
先週はグループ展が銀座と国立新美術館の両方であり、電車に乗ってばかりいた。国立新美術館はハートアートコミュニケーションの主催でわたしは「カマル」アラビア語で「月」を出品している。13室で、入って直ぐの処に飾ってあった。3階の奥が会場。2月4日までの期間。銀座の方は終了。「嬉野の月」を出品していた。
28日月曜日の昼前にスーパーに行くと、知り合い3人に出会う。その中の一人に、車汚いねー、洗いなよ。とご注告をいただく。ハイと言いつつ洗わずに帰宅。スーパーに粉セッケンを買いにいった。洗濯物がたまっていたので洗濯を。後は電車の往復中に読み続けている江戸時代の岡っ引きの文庫本に神経が行く。暮れから29冊読み今30冊目。
キャンバスが届いているので地塗りを始めなければーと、気になりつつ読みふけっている。いつも冬は冬眠だったわよ! と自分と戦っては1790年頃の徳川家重、家斉時代
を楽しんでいる。
スーパーで出会う人は午前と午後又夕刻では違うということも分かった。3人のうちの2たりは私のHPに立ち寄ってくださる方がた。ノロウイルスのことが話題になり、ニュウヨークのことが話しに出る。2月9日にニューヨークの画商Mr,jainと会う。ドイツのart showについてkarlsruheに行く?行かない?行かれない、といった会話が予想されるが
そんな話しをする。昨年5月にお世話になった小坂サロンの彼女は真新しいBMWに乗って笑顔で帰っていった。
さて、またまた江戸草子にもどりますか。
湾岸戦争勃発日 神戸淡路大震災の日 貫一お宮の金色夜叉ー今月今夜の今日。何も起こらないことを祈る。ここ数年はおめでたくない私の誕生日だ。もう13年間はお祝いをしていない。姪がケーキを贈ってくれた。15日に届くように手配したらしい。私の大好きなチョコのケーキ。夫とすぐにカットしていただきまだ半分はある。今日も密かに戴こう。良いこと以外はどうぞ起きませんように。ここ数年の祈もまた新たに致します。
1月1日
神明社へ。31日23時45分。夫は既に出掛けている。一人暗い夜道を地元の天照大神さまに元朝参り。すでに多くの参詣者とお世話役の方達が、0時の時報を待っている。ここまでは除夜の鐘の音は届いてこない。太鼓の音を合図に新年が明ける。4番目にお参り。1年間の恙なき生活を願う。神酒と甘酒それにねずみのお守りを頂戴する。夫は午前3時半に帰宅。午後3時過ぎ鎌倉へ出発。同級生のあの有名な漫画家の二階堂正宏氏が展覧会を開催中なので鎌倉駅前の会場に顔を出す。その後、八幡宮に参る。200万人以上の人出の中、夕刻といえども縄規制のため凡そ45分後に漸く本殿前にたどり着く。住所と姓名を告げ今年の安寧をお願いする。夜空が美しい。7時半過ぎ、葉山元町の森戸神社にお参り。こちらでは、世界に貢献出来ますようにとお願いする。元旦3カ所の神様を巡るのは久しぶりのこと。途中でお腹は拵えていたので、バスに再び乗って帰宅。5時間の元旦の散歩が終わる。星がたくさん瞬いて美しい夜空。
1月2日
遅い目覚め。お雑煮で朝の食事。Mr.FUJIWARAと一緒にと思うがTEL繫がらず。二人で兎に角元旦と同じような物を。12時、MR.FUJIWARAが空いた器を手に、新年の挨拶に玄関に立つ。良いところに来た、と言う夫はパソコンで聴きたいところ有り。お雑煮を温めたり、餅が焼き上がるまでの間
パソコンの指導を。田舎から送ってきたお餅は美味しいのでご馳走しがいがある。私も勿論パソコンのHP最終仕上げをしていただく。
さて、次なる絵解きは、三日月を取ってとかっぱにお願い中の“ねずみ”です。まあるい月は既に手中。本年も相変わりませずよろしくお願いいたします。
ちょくせんひるみやこまがたね と読むとのこと。太古より日宮と呼称。「日本武尊ご東征の折、大日めの尊外五柱の主神に祈願創建」(めの文字が難しい)とある。駒形嶽=栗駒山の古名を奥宮、沼倉の地に里宮を祀ったと由緒書きに誌され、夥しいご宝物・古文書が秘蔵されている。大和朝廷の蝦夷平定に伴って社勢隆盛。延暦20年(801)坂上田村麿が奥羽鎭定を祈願とある。その他由緒書きによると、仁寿元年(841)年に神階正五位贈、清和天皇貞観元年(849)勅使下向正一位贈称号賜勅宣日宮が史料にあり、延喜弐年(901)神名帳登載。下って?保三年(1743)桜町天皇より御宣命と御宸筆の扁額を賜る。諸々の御神徳があり、分けても車社会の今日、交通安全の神としても効験著しいと脚光を浴びている。
ということを知らずに、12月15日土曜日の昼前に従弟の鎌田清の運転で里宮の駒形根神社にお参り。有賀小学校の先生のお一人がこの神社の禰冝さん、と前回訪問の折りに弟から聞き、次は是非お参りをすることを決めてあり、従弟と岩ヶ崎の里宮に。宮司のお父上さまはおみ脚が少しご不自由。禰冝の先生は大国の主神のお札を氏子の各家庭にお届け中。もうすぐお正月ですから。お母さまが折良く焚き火をしておいでで階段がおよそ200段あることや禰冝の先生のこと、宮司さんのおみ足のこと等伺う。200段の階段を上って、さア、ここ栗駒山の麓で18年間育んでいただいたお礼やら京都の一ノ宮上賀茂神社さまとのご縁を戴いていますこと、こんなに近くに一ノ宮さまがおわしましたか、知らなかったとはいえご無礼をいたしました。絵を描いておりますが、ロシアのエルミタージュ美術館に収蔵という栄誉をいただいたことなどということをご報告し今後もどうぞよしなにとお願いいたしました。
従弟の清さんは枯れ杉が落ちて階段を埋め尽くしているので、大きな枯れ杉の枝を手にご奉仕の清掃に早移って降って行く。私が声に出してご報告しているのを聴いてはいけないと思っているらしい。下りていくと、お母さまが、パンフレットを手に待っておられ、禰冝の先生の奥様もお帰りになられて、ご挨拶できました。
尚ここ栗駒小学校で、その昔清さんの父上が教頭先生であったことを、おかあさまが話してくださり、やはり悪いことは出来ないという結論でした。
12月16日日曜日。寒風吹き荒ぶ中でのスケッチ。親御さんたちが迫桜高等学校からイーゼルを借りてきたという具合に気合いが入っていた。子供たちには道具の使い方を教えて上げる絶好の機会かもということもあり教室を出た。風対策を施してくださるお父さんも現れ、篝火を燃やし続けてくださるお父さん方。朝、雪が降り、空気はピーンと張って「禊」以上のきれいさ。しかし1時間半が限界。体育館に入る前に、お母さん方が暖かい飲み物を運んでくださる。ありがたい。体育館に移動して、日曜絵画教室は少し残念ながら、戸外での制作をあきらめる。水彩を施す前に暖房で暖まる。さて、思い思いに、6年間通った校舎に思い出を重ねてそれぞれが描いたスケッチに地塗りをさせる。
子供たちは固まりたいらしいが、自分の心と対話してほしいので、一人になることを強いる。顔が皆違うようにイメージも違って当たり前。それぞれのイメージで出来上がった物を尊敬するのが人間ということを今回は教えたかった。12時。まだまだ終わらないが、お母さん達が昼食のすいとんを大鍋で運んで来てくださる。手作りの熱いすいとん。日曜日返上で校長先生も勿論担任の先生も付き添ってくださっていて、全員のご家族、おとうさん、おかあさん、おばあさんの付き添いもある。(このおばあさんが私の詩集“ペンネーム・河名千絵”の第一と第2の詩集を持って来られた。)5年生の子と4歳の女の子が参加してくれていたから、総勢40人は優に超える数。数えるべきだったと今思っているのです。この子供達が一年生の時に担任だったという隣区の小学校に通う先生も子供の成長が見たくてお土産持参でご参加。熱いすいとんをお代わりして、美味しい漬け物は箸休め。デザートはりんご。一時間の昼休みの後は、温まったことと、元気を付けたことで、1時間程で出来上がる。ちょっとアドバイスを上げてサインをしてもらう。日付も加える。6年生14名に5年生の一人と4歳の子の
16枚の作品を横一列に並べてみんなで改めて鑑賞。同じようなものは一つも無い。
一つの校舎を見て描いた絵にそれぞれの思いを加えたことによって、個性溢れる作品が並んだ。みな優しいことがわかる絵で色調がおだやか。絵が好きという感想文を書いていた子はそれなりのことはあって、頼もしかった。が、ちょっと少しアドバイスを。心に少しのすき間が感じられたから。手作りの修了書を一人一人に渡す。
子供達は絵を描く間に寄せ書きをしていたらしく、温かい寄せ書き色紙を花束と一緒に戴く。午後3時。終了。お父さんの一人に送っていただく。参加した子が3人の親御さんでした。さて、初めの方で新聞社の取材の方がお見えになり、質問があったのでしたが、もう始まっていましたし、寒い中を子供達を待たせられずに、“ 何か応えている暇がないわ”等といったことで申し訳ありませんでした。
上賀茂の階(きざはし)のぼる 許されて こなたのみちをこもごもつげぬ・・・・・
吾が夫(せ)なが神馬と写る一葉はひとつの宝参りし証し
(以上平成19年11月3日)・・・・・・・・・
たまさかの約を果たしぬ夢の如 桜の庭に降りたちてみよ
(平成17年4月8日)奉納の日に・・・・・・・・・
培ひし貴き人のみ傍にてひとの虹の輪花なす願成寺
(平成18年11月3日)
15年程前の湾岸戦争の時は日本は口出しはせずお金をだした。そのすぐ後エジプトを旅した私は尊敬の念で迎えられた。日本人ということでお金は出すが、口は出さない。エライということだった。三度目の滞米中に湾岸戦争は起こり、その日は私の誕生日だったけれど街を歩いている人はおらず皆テレビの放送に夢中だった。旅行者としての私は、日本はお金なんて出さなければいいのにと思いアメリカに住んで長い日本人は、せめてお金を出してくれないと肩身が狭いと思っていることが分かった。さて、そのお金は出すが口は出さないエライ日本人が世界的に、おそらく世界的にマネーの面で攻撃を受けることになった気がする。“世界に回せ”ということだったに違いない。今、ヌーボージャポニズムが叫ばれていて、北斎に西欧が学んだとき以来の日本ブームだ。
絵画や書のみならず映画やアニメ、ファッション、茶道、生花の華道、タイコや踊りの果てまでもジャパンウイーク、ジャパンフェスティバル、何々における日本年といった具合で、世界各地で日本の文化が花開いている。今、更に料理の分野が加わった。俳句は既に加わっている。先に国力には文明に文化が伴わなければならないと書いたけれど、兎に角政治と経済、そして芸術は三位一体というわけであろうか、怖ろしい程の日本ブーム。そして世界中の美術品が日本に押し寄せて日本中を駆けめぐっている。
アルゼンチンに行った時「企業戦士は何処までも行く」ことを知った。日本の企業の大看板が大都会の中にそびえていて、心強かったし誇らしかった。一方文化面では知られておらず、展覧会が開催されたことを嬉しく思ったものだ。
日本の文化を知ってもらうためにはヌーボージャポニズムはありがたい。なにしろ最後の戦争から60年そこそこで「平和な日本」が現出したのだから。江戸300年や、安土桃山時代も平和・・・茶人の古田織部や千利休にとっては不幸が名を不滅にした・・・な御代であったことが考えられる。
将来は功罪のどちらに傾いているのだろうか。今のところは分かろうはずがない。
「One world 」が叫ばれている現在を生きている私は、世界が求めているのならば私の絵画を展覧しよう。岡倉天心や大観の時代ではないインターネットの世界に私はいる。岡倉天心は明治時代にボストン美術館顧問として国際的にも活躍した。快挙だ。
地球温暖化防止、AIDS撲滅、地雷撤去、貧困からの脱却などに対する地球規模での取り組みに、絵画出品を通して世界に貢献しているのなら、お誉めの言葉が出品料に対してのものかも知れない一方で、“多田祐子の絵が何故無い”、“多田祐子の絵がみたい”という主催者側の言葉を頼りや励にして私は私の絵を描こう。
自分の役割を務めるためには、芝居の全体を知っておかねばならないー老子の言葉からーONE WORLDーの中で。