日光東照宮へ

第一回 藝文協会展が日光東照宮の特別協力を得て、7月20日〜24日まで開催されるので、初日に出掛け、神域で一泊して来た。2日目に併設されている『第8回子供ふれあい芸術展』の表彰式があり、私も審査員を仰せつかり、表彰式のプレゼンテーターのひとりとして、参加させて頂きました。
圧倒的に女性が多い、作品展。子供も大人も。男の子たちはスポーツ界で活躍しているのかな? 
日光東照宮客殿及び国宝東西廻廊での展覧会はとてつも無く暑い中、大勢の観光客で賑う世界遺産の神域で始まりました。
何度目だろう?最近は展覧会の度にこの空間に来ている。そして、将軍御着座の間での特別祈祷を戴く。
今回は日光のお蕎麦を2回楽しみました。初日の土曜日は慌てました。ほとんどのお店が夕刻には閉まってしまうのです。どうにか駅の近くの土産物屋さんの2階は営業していて、途中で同じホテル同士が3人になり、3人で同じメニューを注文。ご飯をお蕎麦に変えていただいたのです。
ホテルの朝食も、コロナの所為で、長い間なかった様子。それも改善されていて、コンビニで買わないと、と、の心配は消えて、美味しいオレンジジュースとかにありつけました。
パンをトースターで2分だけ温めていると、ここに6日目の朝の食事をしているというドイツの方が、そう2分が良い!
と、仰る。一人旅のこの背高おじさんは、会話の中で良く“ サムライ” を使い、随分と久しぶりのおしゃべりらしく、
止まらない。幸いにも英語が出来る知人が一緒になってくれたので、朝食時間が思ったよりも長くかかった。
昨夜の夕食を共にした人たちは現れなかった。そもそも何処から来ました?と聞いてしまったのは私です。
左耳が聞こえが悪くなっているというのに!およそ40分のおしゃべりタイム。良い旅を、で、右左。
日曜日の昼。表彰式が終了して、知り合い家族と写真を撮り会場を後に。
さて、美味しいお蕎麦が食べたい♪。20年ほど前に小杉放庵美術館訪問の際に夫金城と大野芳(かっぱ村2代目村長/ノンフィクション作家)さんと一緒に食べたお店を探そう! タクシーに乗って、そのお店は分かったのだが、運転手さんに任せていると、道を左に曲がり、やがて着いた。昼時で、順番待ちの人たちが8人程いる。
昨日からの知人と一緒に日陰で待つこと20分。6人くらいの集団が出て来た頃には、他にも終わった人たちが出て来て、思いのほか早くテーブルにつけ、待つこと2時間という先客には申し訳なし。
知り合ったばかりの画家はアルコールは頂かない。私も要らない。
通の画家は盛蕎麦に、デザート。私はつけ鴨。これには小さいご飯がついて来て、出汁も上出来、当然蕎麦も旨い。
新蕎麦のように甘味はなかったけれど、充分の美味しさ。
葉山や逗子の蕎麦屋さん、2軒とも美味しいが、どれも違う、みな美味しい。
食べ終わって、知り合いが訊ねる事あって聞いていると、知り合いの知っている蕎麦粉屋さんに繋がって、話に花が咲く。残りのお客さんはすでに無く、会計の後に10分は、興奮状態。
ここに案内された訳が解り、世の中は面白い、と、感じいった次第。
蕎麦の味で蕎麦粉屋さんが分かる!通 ってすごいのでした。
東武線で帰る知り合いとJR線で帰る私は、日光駅で、右左。
夜の8時過ぎには帰宅できました。

日光東照宮辺りには赤トンボが飛び交っていて、夕方にはヒグラシが遠くに鳴いていました。

記念品としていただいた日光杉の木札を掲示します。

宮司 稲葉久雄氏の堪忍 と三つ葉葵の風呂敷  木札:60cm x 12cm x 6cm
厚み6cm
宮司 稲葉久雄氏の堪忍 と三つ葉葵の風呂敷  木札:60cm x 12cm x 6cm
裏書
裏書
日曜日の東照宮
この背高ノッポさんにカメラOK の了解をもらいました。
日曜日の東照宮
「my little friend」
「my little friend」

かっぱ村 50周年記念祭

同好会の『かっぱ村』、というグループが、50周年記念祭を計画している。昭和50年の4月に発足しているので、本来は来年が50年にあたる。
50年、みんな歳を重ね、来年まで待てない! ということで、一年前倒しに。この間に、鬼籍に入った村民は100人、100柱になっている。
昭和50年8月に、岩手県の遠野市に於いて、かっぱ探しを1週間ほど行ったが、その時に、地元の長老で、かっぱ目撃者の二人の話から、黒板にチョークでモンタージュを描いたのが私。村を起こしたノンフィクション作家の大野芳氏も鬼籍入りしているが、彼が私に描け!ということだった。動物を描いたことは無かった。
そのモンタージュが、昨年、伝承園というところから缶バッジで登場した。非売品で、ラリーなどの景品で配られ、今年も作る、と聞き、頂くことに。昨年、作ることの打診があった際に、来年の夏50周年祭を予定していて、その際に
100個頂きたい❗️ 旨の話をしておいた。
いよいよ8月が近づいて来たので、伝承園に架電。なんと今年も作る、と。では後200個頂きたい、とちょっとだけ図々しくも、村民の数を念頭に申し入れ。伝承園さま、快くも快諾を下さったのです。
そして昨日、去年の分の100個の缶バッジが届きました。
この小さな缶バッジも記念品のひとつに加えて、参加者の皆さんには配りましょう。
伝承園さまはもとより、このかっぱのモンタージュのことを掲載してくださった、遠野市文化研究センター発行の遠野学叢書No.12「遠野の河童」(平成30年3月30日・発行)のみなさまにお礼申し上げます。
遠野文化研究センター所長は赤坂憲雄氏でした。

缶バッジ
缶バッジ
昨年のポスター
昨年のポスター
画家の多田祐子 とある、でしょ❣️
画家の多田祐子 とある、でしょ❣️

Firenze ・ジャポニスモ芸術祭2024

上記の展覧会がイタリアのフィレンツェで始まっている。
ミケランジェロ要塞に収蔵される絵の展覧会。板絵になって収蔵される。
フィレンツェ、夫といったのは、相当前。イタリアは数回訪問したが、今回は生憎と出来ない。
私に何かあると、夫は生きていけない状態にある。何処にいても危険とは隣り合わせだけれど。
さて絵は、
さる宝石屋さんのダイヤの指輪と交換したのでした。小指ようの太い指輪。確か宝石屋さんは野田さんというかた。
パーティの折に使うのです。恋人募集の右手の小指に。あいにくと恋人は未だに顕れません。
パリのモルモッタン元美術館長のドートリーブさんがいらしたときに、” パーフェクト” と言ってくださった
『中納言』40号。この絵をホームページから、見つけて、推薦して頂き
これで、ミケランジェロ要塞の壁に、収蔵していただく。
イタリア時間で20日から始まっていて、20日 21日 & 27日 28日の展示。フィレンツェの「ギャラリー360」
で開催される。
絵は、ホームページの作品の2ページ目上から7段目、左にある。

よかったら見てくださいね。で、ドートリーブさんが来られた時の写真も掲示します。

左ドートリーブ氏(フランスのマルモッタン美術館長時代)  馬郡俊文氏  多田祐子   
鎌倉の蕎麦屋さんで
左ドートリーブ氏(フランスのマルモッタン美術館長時代)  馬郡俊文氏  多田祐子   
その昔、ホテル音羽ノ森 別館に飾らせて頂いた時
『中納言』  1993年1月15日
その昔、ホテル音羽ノ森 別館に飾らせて頂いた時
画集その3の表紙
画集その3の表紙
スペインのSr.Fernandez  やはり私の絵の前で。この絵は行方不明のまま
スペインのSr.Fernandez やはり私の絵の前で。この絵は行方不明のまま

九谷焼の堀江祐夫子氏との共演

九谷焼で著名な堀江祐夫子氏との共演で、第4弾の黄色い皿が展覧会を終えて、私の元に届いた。
可愛らしいお皿。でもどなたもご予約くださらなかった。とにかく景気が悪すぎる。経済は回っているのかしら。まぁ私達には回ってきていない。されど、各美術団体さんは、休むことなく次々と企画され、その幾つかは私の元にも話しがくる。
困りつつも、その幾つかは出品料という、協賛費用をどんなにして捻出しようか考えつつ、了承する。どうせ「ウィ」というまで、何度か
電話がかかってくる。もう来ないだろう時期、とおもいきや、掛けて来られる。早めのお知らせだった、そうで。
今年も半年が過ぎようとしている。遅れつつもなんとか協賛費用を払い続けている、有り難いことだ。

九谷焼「天才の黄色」と原画を掲示します。一皿 三万四千百円だそうです。
スマートシップギャラリーさんでした。

原画 オイルパステル  19cm x 17cm
「天才の黄色」
原画 オイルパステル  19cm x 17cm
九谷焼になった「天才の黄色」 ほぼ原寸大
18cm x 18cm
九谷焼になった「天才の黄色」 ほぼ原寸大

再びスイスの旅

先に、インターラーケンに泊まったと思いそう記したが、今朝見ると、グリンデルワルトのベラリーという宿に泊まっている。オーナーが日本人ということをガイドブックは教えていて、ヘルマン・ヘッセがこのホテルから見たアイガーの美しさを綴っている、とあったので、泊まったが、あいにくとオーナーさんは日本にお帰りでお会いできなかった。
ユングフラウヨッホ駅にある郵便ポストは丸い日本のポストであった。

欧州国連本部の平和の間での私の作品とユングフラウヨッホの赤いポストを掲示します。
美しいスイスの山並みやレマン湖での寄港先などのたくさんの写真があるのですが。

「Funny」
作品タイトル 「おかしい 」佐藤ファミリーコレクッション
「Funny」
日本のポスト 世界で一バん高いところにあるんでしょうね
この履いている靴が途中で糸が切れるのです。右足の後ろの縫い目。
日本のポスト 世界で一バん高いところにあるんでしょうね

ドモドッソーラ

1997年6月、国際平和美術展が国連欧州本部の平和の間において開催されたこの時、私はスイス一周の旅をした。
ジュネーブのホテルから歩いていける距離のレマン湖をモントルーまで船に乗り、天井がガラス張りの電車に乗って、インターラーケンまで。インターラーケンの駅から徒歩で行けるホテルを予約してあって、一泊。翌朝は雨で、インターラーケンの駅のロッカーに折りたたみ傘のケースというか、袋を忘れ、今もその折り畳み傘を使っているが、おかげでインターラーケンの駅を思い出す。
インターラーケンから登山電車に乗ってユングフラウヨッホまで行った。赤いポストに日本に向けてハガキを書き夫宛に出した。
さてここからまたインターラーケンまで戻り、ブリークという駅を経由。このブリークという駅でリフトはある?ときき、駅員が指差す方に
走った。乗り換えの時間が短い。今日本人が走って行った、とかなんとか、無線電話で伝えてくれた様子で、電車は待っていてくれた。
車掌さんが笑顔で迎えてくれたことで判る。短い2両編成の電車。しかしこのときに走りに走ったので、私の靴は右足の後ろ側が糸が切れてしまいちょっとみっともなくなっている。スーツケースから代わりの靴を出す暇がない。
女性の親娘連れがそばに乗っていて、その靴を見るもんだから、私は”「フィラデルフィア」(アメリカ)(因みにイタリア製)で買ったお気に入りの靴が壊れたわ”と言い訳をした。すると親娘はびっくり顔。なんとフィラデルフィアから来ている旅行者。すっかりニコニコ顔で、国境のところで、長く停車する電車を降りてカメラであたりを撮影していると、ボーダー? と聞いてくる。そうよ、と応えると、電車から降りてきて、車掌さんが戻ってくるまで同じようにあたりをカメラに納めていた。そこはボルガノーネという駅かなぁ?再度スイスに入るときには前もって集められたパスポートを返してくれた。国境の入管と出国の印が押されていた。
ここまでの間にドモドッソーラというイタリアの街を通る。
ここで、私は、夜の宿に電話を入れに電話機を探し、日本の夫にも電話を入れた。宿はズーリッヒ(チューリッヒ)。
遅くなるので、部屋がなくならないように架電してホームに戻る。
あっ!置き忘れをしている!予定表やら住所やらのクリアーファイルを電話機のところに!
おじさん!この荷物見ていて! 近くにいたスイスの人やらはわからないが、声をかけて私は階段を駆け降り、電話コーナーへ。
あった! また走り階段をかけのぼった。ありがとう!(多分日本語)するとおじさんがいう。『この電車10分遅れているよ。』
電光掲示板のような立派なものではなかったが、確かに十分遅れ、がわかる。フウフウいう私の心臓を休めつつ、忘れ物があったことを
おじさんに伝えた。
このおじさんはどこの駅で降りたやら。ずーっと見張っているのもおかしいので、そのせいで見失った。
フィラデルフィアから来たという親娘は、確か途中で下車。乗り換えで、ルカロ(イタリア)に行くと言っていた。
ときどき思い出すドモドッソーラ。何語でお願いしたのやら。おじさんは私のスーツケースの側で立って私が戻るのを待っていてくださった。痩せた、あまり裕福そうではない風体だった。ドモドッソーラ。思い出の駅のホーム。ありがとう!

あれからもう2回スイスに行った。ニューヨークのJAIN ギャラリーのMr.Jainや彼が扱う作家のフェルナンドさん、サンドラさん、シンチィアさん、バルビさん夫妻と。オランダのニコルさんともスイスフェアでお会いした。

いつの日かモントルージャズフェステバルに行きたいね と希望を語っていた夫とのモントルーへの旅は最早出来そうにない。
列車乗り場は船を降りた道路からエスカレーターに乗り、2階?から出ていて、いろいろとカルチャーショックの旅だったのでした。

長くなるが、このときのズーリッヒの最後の夜の遅い時間帯に ”今宵は月も綺麗だし” という美しい若者との出会いが 、帰宅後に
『桜 月』という絵になったのである。月は出ていなかった夜でした。

6月の我が庭に咲く山紫陽花を載せました。

我が家のアジサイ
我が家のアジサイ
ヤマアジサイ
ヤマアジサイ
アジサイと小虫
アジサイと小虫

忍冬

少し高い位置に忍冬、スイカズラの花が咲いている。今年は花が多い気がする。
卯の花はたくさん咲く。その後に、傾斜地は忍冬が咲く。
我が庭、手入れをしたいところ。松の枝が空に向かって伸び放題。本来なら枝ぶりの良い、松にしておきたいものを
6年、このかた、それが出来ない。
昨夜、パイオニア電話機が壊れた。モデム通信エラーの表示。
私がどんなにしてみても、解決しない。
パイオニアに電話しても、NTTドコモに電話をしてもラチが開かない。
つい夫に寝てる場合じゃないよ! と声がけ。ごめんなさいね。
明日新しい受話器を買ってきて取り付ければなおるものかを、知りたい。
とにかく只今は、我が家の電話機は故障中です。
よって玄関チャイムも内側には聞こえません。
そんな中、夫の薬が配達されたり、ご近所の人が家成りのビワの実を持ってきてくださった。
上り口にそっと置いてある。ありがとう😊

山の家に咲く花をちょっと掲示します。

スイカズラ
スイカズラ
カラー  大好きな花の一つ
カラー  大好きな花の一つ
ツツジ
こんなに咲いたのは初めてです。
ツツジ
これも大好きな花の一つ
これから次々と咲き、色が変化します
これも大好きな花の一つ

皐月の開花

旧暦の4月半ば。花壇の皐月に花が咲いた。手入れをしないままここ数年が経過。
今年こそは、花が終わり次第、刈り込みをしたいものだ。

上賀茂神社さまに送りました葵。葵祭は雨も降らずに、上々のお天道さまのもと、今年も無事に終了
でしょうか? あるいは関連行事がまだまだ続いているのかもしれません。
下鴨神社での茶事の模様を見学できた年も、翌日でした。

庭の花をアップします。

紅白に咲く皐月
紅白に咲く皐月
こちらはピンクのみ
こちらはピンクのみ
みかんの花
実った頃には早々と台湾リスが来ます
みかんの花
双葉葵。
双葉葵。
カラーは今年は一本のみ
カラーは今年は一本のみ

小花模様のネクタイ

毎年、母の日がくると思い出すことがある。
20年以上前のことで、知っている人は私と金城だけだ。
ワーナー・ブラザースの経営者の一人が、この山の上に住む友人のところに来た。
カルフォルニア時代に音楽を通じてのお付き合いが深かったらしく、我々も紹介に預かった。
お泊まりは、近所のホテル、音羽ノ森を友人はあつらえた。
翌朝その支払いを済ませた友人は、泣いていた。丁度「母の日」の夜の泊まり。
電話代が半端なかったとのこと。頭の隅に、全くなかったらしい。
何時間も通話したらしい。
大きな大人の母親との長電話。今もどんなことを話したのやらと思う。
親孝行の息子。
その息子さんから翌朝、金城は愛用のネクタイを頂いた。首から外して。
細かい小花模様のネクタイ。

隣人夫妻はもうこの世にいない。金城は声が出せない。
その隣人と、我々を知る奈良県の知り合いの人も昨年お亡くなりに。
奈良県の知り合いにネクタイの話はしていない。佐保川の桜祭りに行燈の絵を描かせてくださったご本人も絵描きの人だったのです。2年続けて行燈の絵を描かせていただきましたが、思いますに最晩年だったのですね。
隣人の彼よりは、少し若かったみたいでしたが、なんせ20年以上も前のことです。

私たちにはもう母も義母もお互いにいない。
母の日、またひとりおもいだしているわたし。

頂いたネクタイを掲示します。

made in USA
Italian silk
made in USA

小山内美江子氏のご冥福を

2010年1月に『世界平和芸術家協会 創立記念展〜カンボジアに学校を作ろう2010〜』が埼玉県立近代美術館で開催された。私も事務方からの出品要請で、出品している。埼玉に住む姉に覗きに行ってもらい、私自身は行かなかった。
第2回展は、2011年1月。これも埼玉県立近代美術館であり『〜世界の子どもにワクチンを〜』であった。
それが今年は第14回展。昨年同様に国立新美術館での開催。5月17日〜26日(21日休館日)という日程。
2点出品している。夫の自宅介助があって、六本木までは行かれそうもない。3:30以上はひとりにしたことがない。
小山内美江子さんのカンボジアに学校を作ろう! という話は聞き及んでいたが、お会いしたことはない。
ご案内状が手元にないので、判らないが、今回はどんな内容なのかしら?DMには書かれてはいないはず。40枚のDMは
発送してしまい、手元には一枚も無くなっている。
“ しゅっぴんきょうさんひよう 出品協賛費用” というものに日々努力させられている我々芸術家は苦労している。
とはいえ、小山内美江子さまの冥福をお祈りいたします。