• 12 × 12cm / oil pastels on paper / 2012(個人収)
  • 72.7X60.6cm/ 2003
  • 33.4X24.3cm/ 2007
  • 72.7x60.6cm / paper & oil on canvas / (sold out)
  • 27.3X22cm/ 2007

雨にしょんぼりでした。

 今日7月22日の日食をとても楽しみにしていました。部分日食であってもかなり欠ける太陽を見ようと、19日の日曜日には、大きめのダンボールを用意して、小さな穴をあけたところに、アルミホイールを貼り、そのホイールにさらに小さい穴をうがち準備万端。ダンボールの底に月のような影ができるはず。だった。「日食の観察」の仕方で一番簡単な方法みたいと。あとは上空の水蒸気次第だった。皆既日食はメディアを通して観るしかない。朝。雨の音。空を見上げる。雲が厚い。9時半になっても10時になっても、厚い雲は垂れ込めたまま。小雨も上がる様子がない。玄関では手作りの日食観察ダンボールが横たわったまま。10時ちょっと過ぎに日本郵便の配達の女性がやって来たので、雨で残念ねぇと見えない日食の話しをしながらもなんとか晴れ間がやってくることを期待。ダンボールの準備までしたことを話題にする。彼女の小学生の息子さんは学校へ行ったそう。先生の指導があるそうな。雨の所為とともに上空では欠けていく太陽のせいで室内はだんだん暗くなる。蝉は啼かない。単なる雨の所為? 雨は小降りになっても雲が厚い。とうとう時間切れ。幕切れ。なんともしかたのない一日。2035年までお預け。26年後。生きていよう。
子供のころに黒い下敷きを通して日食をみたことがある。部分日食だった。その頃は紫外線の危険は言われていなかった。今のようにオゾン層の破壊が無かった頃の時代。
同じく雨で観られなかった人々や飛行機に乗って雲の上で観た人たち、奄美諸島や鹿児島県で観た人、東京都下でもほんの一時、雲の切れ間から観ることの出来た方達の話しを聞いて今日の「世紀の皆既日食」の一日は終わりました。悪石島に出掛けられた人たちと同じくらいに私もがっかりでした。少し「輝く闇」を見たかったのです。

イタリアの旅 その2

 ローマの聖天使城(サンタンジェロ城)の屋上で一人旅をしている女性の河野○○さんと出会った。色々なところにご一緒したあとホテルに帰ることになった。すると同じホテルでしかも同じ階。そんなことに驚きつつ、夕食も一緒にしようとなった。シャワーを使った後に街に出る。スペイン広場にほど近いホテルだった。彼女にトラットリアを教えて頂いた。いわゆる大衆食堂。この先の旅は多いに助かったのである。フィレンツェで地下にあったりするトラットリアに通った。まあおおざっぱな盛りつけで量が多い。小魚の料理などは二人で一皿が限度。夫は母親が逝って、一年は禁酒、を自らに課していて飲みたいワインをこらえていた。ビールも飲まずの旅。そんな旅の途中の夢でとうとう飲んでしまった。朝目覚めて、飲んでしまった夢のはなしを聞いて可哀想になったが自分で決めたこと。やはり帰国しても秋の一周忌まで禁酒を守っていた。ローマでもフィレンツェのホテルでも2日目の朝、3日目の朝と朝食の時のパンの数が増える。4日目ともなるとお昼の分としてテイクアウト出来そうなほど気前よく下さる。愛想もすこぶるよくなってくる。
 ミラノの鉱物博物館では髪の毛のような鉱物、綿花に近い鉱物を知った。夫はダビンチの美術館でダビンチの発明品に感心していた。当時はルネッサンス500年祭に向けて、イタリアのあちらこちらでは修復の作業中。バチカンのシスティーナ礼拝堂しかり、トレビの泉しかり。足場ばかり多くて、トレビの泉には水すらはいっていなくて、
乾いた噴水に後ろ向きにコインを投げ入れてきたが、その後まだイタリアに行く機会がない。衛兵がまとうミケランジェロによるデザインの制服。しっかりと撮影してきた。気が利いた美しさの代表みたい。
 ヴェネツィア。サン・マルコ広場で月の光を浴びつつ<音楽>を堪能。ガラスの島ムラノ島にも行った。ここで買い求めたピンクのコーヒーセットは夫と、いち、に、さんでどれが好いか指さして、同じセットだったがためにどちらともなく買わざるをえなかったもの。趣味が合うときが多い。困る。ということもある。諦めることが難しいんで。
 2003年の10月、イタリア/ルネッサンス500年祭の折に開催された展覧会で、コスタンツァ・デ・メディチ芸術褒賞をいただいた。そして「メディチ文化協会正会員」の認定を受けた。12月の「バチカン聖なる創造展」では、招聘出品ということであった。私は私の絵と共にイタリアには行くことが出来なかった。アメリカとフランスに行ったあとで、9月のロシア サンクトペテルブルク建都300年祭の招聘出品に応じるのが精一杯だった。その後サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館収蔵の時にも私の絵のみが行ったのであった。2007年3月のモナコ行、7月のイタリア・ヴェローナ行きとマレーシア行、9月のロシア行、11月やはりイタリア・アッシジ行きと残念ながら私は行かれなかったのです。Too much でありました。
 夫はローマにホテルを買おうかと言っていたのですが、将来の分のお金を含めて私が全て使い果たしました。ハイ、ごめんなさい。

1990年5月〜6月のイタリアの旅

 去る五月に友人の一人がイタリアに行ってきたという話しをしてくれた。急に思い出したのがミラノでの体験。夫と二人で旅をしたのは1990年の事。添乗員なしの全くの手作り旅。トーマスクックの時刻表と電子手帳・翻訳機をともにローマに4日、フィレンツェに4日、ベネチィアに2日、ミラノに3日間滞在した。ローマからは電車でナポリに行き、ポンペイやソレント、青の洞窟にも足を延ばした。ナポリからハイヤーを駆った訳で、いろいろと話しはあるが、青の洞窟に小舟を操って案内してくれた青年はチップをねだるとき、私の手元の財布をのぞき込んで、マダム、と言っては自分の思うとおりのところまで貰おうとした。けしからん!。それにつけてもあの洞窟の碧、蒼、あお。美しかったことったらない。オパールのあの透明な色が洞窟の中にあった。いまだに思い出すことが出来る。ハイヤーの運転手と別れ際に入った店で買った小箱を今も大切にしている。運転手がオルゴールのことを説明しようとしてミュージックボックスという。ミュージックボックス?そんな大きいものは要らない、と思った。とにかく店に入ってみると、オルゴールやさん。どれもけばけばしい。うち忘れられているらしいほこりまみれの一番地味な小さい音のない小箱を見付けて私は買った。
話しが長くなる。急に思い出した話しというのは、ミラノのスカラ座でのこと。講演はなくて生憎と思いきやなんと、小澤征爾さんの総稽古の様子を見ることが出来た。オペラの衣裳などの展示物を見ていてつい劇場を覗いてみたくなった。夫と重たいドアを押し開いて中にはいるとき、警備員さんはOK。ラッキーとばかり、その稽古ぶりを眺めていた。20〜30分過ぎたか。と、突然、なんと小澤征爾さんの登場。今日は総稽古だったらしい。小澤さんが現れて稽古に変化が著しい。奥の方にいた人が前に来たり、歌っている人が変わったり。私たちは時間を忘れて、ドンドンと変わっていく舞台に夢中になった。そしてその時に合点がいったことがある。絵を描いていてドンドン変わっていく事と同じ“さま”によく似ていたことだった。
私は熱くなった。夫にも同意を求めて、「変化は当たり前」を実感。嬉しくなってどれほどの時間が過ぎたものか。ミラノに感謝した。
ミラノは旅の最後。夫の花粉症が突然発作。薬局に私は行かされた。電子翻訳機を手にして“花粉症ですが、薬をください”と示す。その電子翻訳機が面白いらしくて、店中の
売り子さん、薬剤師さんが集まってきた。店の外では夫が何事かと心配している。19年前の話でした。イタリア。ありすぎる話しはまたその内に。

1999年9月と2000年5月のニューヨーク

 ニューヨーク在住のペルー人、フェルナンド・ポマラーザさんに彼が仕事場にしているプリントショップに連れて行ってもらった。初めてのモノプリント体験はとても面白くて、一週間契約した。初日は工房で作品作りをするフェルナンドさんやポーラさんの仕事ぶりを観察。いろいろな紙類が必要。フェルナンドが教えてくれる紙の数々を早速仕入にダンタウンに。翌日からみんなに真似てサンドイッチやおやつの菓子類を持ち込み一日中プリントショップにいりびたり。使用料が安くないから旅人のわたしは一週間しか借りられない。ここでいくつかのモノプリントを作った。紙をまずお風呂のように広い水槽で濡らし、余分な水分は別の紙に吸い取らせる。でプラスチック板に描いた絵のうえに紙を置き輪転機で回して紙に転写。この輪転機が重い。たびたび人の力をお借りする。フェルナンドさんや今はもう故人のやはりペルー人(名前忘れてすみません)の版画家に頼んだ。で1日乾燥させた後は厚い板の重しで数日寝かせ、モノプリント、一点物の出来上がり。日本でもショップがあるなら制作をしたいところ。道具類は重たくて大きな物ばかり。様々な機具が必要。後にも先にも一度きりの制作になった。翌年この工房に行ってみると移転して行き先が判らない。フェルナンドさんに今度聞いてみよう。ここで作ったいくつかのうち(10点制作)の油彩がほとんど手元にはない。最後の1日は油では乾かないので水彩を使ったが、描く先から乾くので、5分位で描かないと転写に成功しない。じっくり良い作品を描くには前もっての準備がいる。それでも5点描いた。即興だった。工房風景と作品をご紹介します。

1999年9月モノプリント工房
背中を見せているのがフェルナンド
2000年5月ニューヨーク・ブルックリン
道の途中で梱包し直し中の金城。夜。
近藤愛子氏収蔵「ときめき」
「よろこび」

レリア・ピサロ氏からの認定証

 フランスの画家カミーユ・ピサロ(1830〜1903)は芸術運動、いわゆる「印象派」をけん引した一人であった。そのカミーユ・ピサロの曾孫レリア・ピサロ氏から(株)芸術書院を通して、認定証が届いた。レリア・ピサロさんとは面識はいまだない。氏は(1963〜)現在ご主人のデービット・ピサロ・スターン氏と共にカミーユ・ピサロをはじめピサロ家4世代に亘るコレクション、および著作権管理人をしておられるそう。文中の「高貴な精神」、「比類なき至高の極み」といったお言葉には多いに恥ずかしさを覚えるのだが、思わぬ認定証を頂戴しましたので掲載。近日、フランスの評論家クリスティーヌ・モノー氏からの批評文にも「至高の表現を目指す存在」とあった。悪態をついてばかりいる多田祐子としては身の置き所を失うばかり。しかしコレクターの方々にはご報告しなければ。?。

レリア・ピサロ氏からの認定証
訳文
花見の4日目は鎌倉の齋藤百合子さんをお誘ひ
 
石段をはずんで登る百合子さん 95才と看花の宴

栗原でねっと

 昨年6月にあった「岩手・宮城内陸地震」からやがて1年。近頃私のふるさと「栗原市」発の“栗原でねっと”が発足。栗原市役所のHPとはまた別。地域の人たちで立ち上げたものだそうです。さまざまな特産品からはじまって市のことが満載。どうかお立ち寄り下さい。わたしもふるさとを応援しようと思いまして、1975年代のふる里風景を掲載しました。写真は多田祐子展第2回・はまのや美術サロンでのもようです。
1975年当時の冬のぬかるみ道、そして早い春の栗駒山が遠くに眺められる迫川です。具象画の時代のもの。このぬかるみ道は今は舗装されてしまっていて、絵にはならないが、車社会の今日はやむを得ない。迫川は白鳥や渡り鳥を育んでいる。ラムサール条約でつとに有名な伊豆沼があるあの栗原市若柳近辺のみです。そのうちにまた、違った写真を紹介したい。栗原 くりはら クリハラ がんばれ!

エジプト続き

当時ニューヨークの日本クラブに勤務しておられたトム・ドノバン氏が、エジプトで困ったことがあったときのためにとカイロに住むイワネスキーさんを紹介してくれた。アスワンから戻った私はナイル川クルーズのオプションで一人旅のチリー人女性と出会った。日本に住んでいると言って日本語が上手。ドイツ人の父親とチリー人の母親の間に生まれた背高のっぽの美人。これから先の旅はズーット一緒に行動することになる。そういうことになり、イワネスキーさんに電話を入れてみると、明日の朝一緒に朝食を。と快い返事。友達を連れて二人で行くことの了解をいただき、シアグ・ピラミッドに泊まっているレヒナに連絡。翌朝一緒に約束の11時に少し早いが伺った。若い奥さんが出迎えてくださった。お互いの紹介の後、広いアラブ式ハウスをみせてもらっているところに、大きなケーキの箱を掲げた主イワネフスキーさんが帰ってきた。丁度11時。イワネフスキー夫妻はアメリカ人。陽気なカップル。私とはどうも同い年。ニューヨークのトム・ドノバンさんも大体そんな年に違いない、と勝手な結論になった。そこにアラブ人の友人が訪ねてきて、4カ国の人間同士で写真撮影。お茶とパンとケーキでブランチ。レヒナが空手と柔道2段という話しになり、イワネスキーさんの、友人とちょっと取っ組んでみてよ、との注文に怪我をするからとレヒナ。背の高いアラブ人はホッと胸をなで下ろしていた。アメリカ人夫妻は運転手に命じて私とレヒナをダウンタウンの繁華街まで車を向けさせ送ってくださった。道々私たちはハッピーと言い合った。レヒナは渋谷をちぶやと言い、忠犬ハチ公のことを、イヌね、という。初めは解らなかった。でも十分にお互いが日本語で話せる。レヒナは日本人が、日本が大好きという。最早渋谷にはいない。チリーに帰った模様。アレキサンドリアに行くという私に付き合って、例の若者をガイドに、バスに乗って3人で出掛けた。アレキサンドリアでは新たな運転手が待ち受けていて歩くことはなかった。1日のアレキサンドリアの旅で、博物館めぐり。写真の要塞は生憎と閉館で地中海の海を眺めてお仕舞い。イタリアのソレントから見た地中海の海と思うと不思議。この海の底から色々と繁栄していた時代の遺跡が見つかり、話題を提供し続けている現代を私は生きている。ツタンカーメンのマスクも見て、壁画がダメージ少なく、残っているのは、時の王様の長生きの恩恵(在位期間の長さ)で、急ぎでなく、丁寧に描いたからという説明を聞いた。王の短い命は壁画もクイックリーに描かれたために今に残っていないか、ダメージが激しいとのこと。
 このアレキサンドリアの旅のあとレヒナと別れて帰国の途に。これがまたびっくり! 空港で警官が何故か私を連行。? ズーット後で理解出来たのだが、エジプト大使館でもらったはずのビザは私の申請した日付を全く無視。既にとーの昔に終わっていて、ビザなしで私は9日間滞在していたと知る。そのときは全くなにがなにやらわからず、
どこから来たというから、ニューヨークから。何処に泊まったか。ヒルトンに。証明出来るか。さっきもらった長ーい領収書の束を見せると、チケットは。幸いビジネスクラスのチケット。件のお偉い警官さん、行っていいという。時間がかかったが、訳は言ってくれなかった。エジプトは1週間以上の滞在にはビザが要る。今エジプト大使館の証明を見ると'93年12月とある。'94年2月か3月でないといけない。とにかく面白い旅だったのです。お仕舞い。

アスワンのホテルで。日本食の看板にビックリ。
切りかけのオベリスク(切り出しに失敗したので真ん中に傷。で、そのまま)
一人旅の終わりはアレキサンドリア。地中海の海の碧さというか空の蒼さ・撮影/レヒナさん

1994年3月のエジプトの旅

 旅行記をまた聞かせてください。というコンタクトメールがあって、ご希望に添わせていただきます。今度はもっと古い'94年のエジプト一人旅です。1月28日に成田を発って、ニューヨークでの第26回目になる個展を終え、アムステルダム経由でエジプトヘ。冬期オリンピックがリレハンメルで開催中の期間で、アムステルダムで乗り換えに優に10時間程あった。で、ギルダーに両替。電車に乗って街へ。電車の中で「昨日日本が金メダルをとった」と、ノルウェーから来たという金髪青年が教えてくれた。団体競技でノルディックスキーだったかと記憶(違ったら教えてください)。アムステルダムでは美術館を2っ廻って、お昼をゆっくり食べて、路面電車に乗ったり降りたり。帰りがけの乗り継ぎの時にも美術館を1つ見たからアムステルダムは泊まらずとも行ったことに。さて、エジプト着は深夜。エジプトポンドに飛行場で両替。と、近づいてくる青年。ガイドだ。翌日からのガイドを予約。ルクソールやアスワンにも行く予定を告げる。ナイル・ヒルトンに着いたのは午前2時すぎ。夫金城からファクスがあってホテルの部屋に紙が落ちている。電話をしようと試みるけれど、一向に繫がらず。ニューヨークからエジプトに行くことをとても心配していたから、無事を知らせたい。丁度少し前にルクソールで列車襲撃事件があったばかりの頃。“列車では行かないから”とニューヨークと日本でのやりとり。翌朝といっても数時間後だが、時間どおりに、昨日のガイドの青年がホテルのロビーに既に来ていて、まずはお隣にあるエジプト考古学博物館へ。案内者が突然小父さんに変わる。小父さんの分もチケットを買わされる。先に支払ったガイド料金とは別料金かい?この小父さんが面白い。カイロ大学の元助教授とのご挨拶。多分?。まあいいか。この小父さんによると“大古にエジプト人は東洋から、わけても日本からきた”という。“顔をごらんなさいよ、どの王さまの顔を見ても日本人でしょう”。私を喜ばそうとしてもマァ欧州人や黒人の顔でないことは確か。パリーのルーブル美術館にある「書記座像」を思った。あれは何人?日本人に近い?立像は決まって左足からステップを踏み出している。茶道の左足からの作法を考え合わせて、なにやら不思議。サッカーラのピラミッド等の説明では「壁画等が日本の博物館が持って行ってここにはない」という。私は反論。「その昔、アラブ人が夜、盗掘をして売ったから、日本は買ったまでよ」と。小父さんは首をすくめた。そんな言い合いもあって小父さんへのチップは払わずにさよなら。多いに不満そうな顔が印象にある。丁度ラマダーンの時期で若い方のガイドはお昼時なにも食べなかったが、小父さんは私に払わせてなにがしか食べていた。一人で食べるよりはまあ良かったけれど。宗教の違はルクソールに行ってからもあって、ルクソールのガイドは左指に指輪があって、クリスチャンとのこと。イスラム教の人ばかりとは限らない。このクリスチャンさんは生粋のエジプト人ではなくてまぁいわば、スマート。財布を覗いてまではチップをせがまない。ルクソールに向かうとき飛行場で渡されたものがあって、?、?。なに?薬? 私のこれからの予定表を雇うはずのガイドに渡せっていう。会えなかったらどうするの?砂漠で。なんだか世話がやける旅。ルクソールではあんまり歩かなかった。トロッコに乗って移動。王家の谷の修復中の女性にMrs. と声を掛けても反応がなかったから至極残念。自分のこととは思わなかったことに今は思う。観光客は少なかった。ナイル川の西岸と東岸を結ぶフェリーに乗ってカルナック神殿へ。一人で来たことに少々残念な思いが。またチャンスがあったら大勢で来たい。と思うことしきり。
翌日はアスワンヘ。やはり私の日程表を持たされて。まず連れて行ってくれたところはアスワン・ハイ・ダム。広い広い。次は切りかけのオベリスク。ははーん。フランスもアメリカもオベリスクはここから運んだか。あまりにもおおきくて言葉がない。このアスワンではファルーカという帆船に乗って向こう岸に行き最も古いホテルを眺めてスケッチを。アガサ・クリスティが「ナイル川殺人事件」を書いたというホテル。泊まらなかった。お昼を食べに入ったホテルでとても長ーい時間待たされ、なーんで。どうしたの。テーブルのバラの花はもう画き飽きましたわ。と、1時間も待ったところに日本のツアー客の到着。関西方面の方々。もちろんテーブルはズーット離れているのだが、どうもこの到着を待っての私の昼ご飯。一緒に作ろうというわけだ。ガイドに帰りの飛行機に間に合うの?急げ急げ。しかし狭い飛行場で、到着と同時に搭乗。訳なし。
少し前におしんを演じた綾子さんが来たらしく、日本語をしきりに学ぼうとして質問ばかりのガイドたちに、ホテルのボーイさんに随分と日本語のレッスンをした。
ルクソールのヒルトンホテルでは日本人は私の他に2名いらして、他は白人ばかり。なのに“日本食の朝食”という看板まで掲げられて、味噌汁があり、ネギがきざまれてあった。
 カイロに帰ってから出会ったレヒナさんのことやイワネスキーご夫妻の話もあるのでまたこの次に。今日はここまで。

多田祐子 の「桜 月」が出来るまで

 今年もあちらこちらの桜並樹が見事な昨日今日。今1997年(平成9)にスイスを旅したときのことをお話ししたい。’97.6月に、国連欧州本部の(スイスのジュネーブ)、その「平和の間」で“国際平和美術展”が開催されたことに合わせて、スイスの旅を敢行。美術展は世界文芸社さんの主催でしたが、ツアーとは別行動で、スイスを一周。チューリッヒはズーリッヒと発音するとズーリッヒ行の電車を空港駅で当地の小父さんに尋ねて先ず解る。成田を出るときに既に2時間は遅れていたので時間は夜の10時。夏なので幸いにもまだ明るい。飛行機の遅れはなにやら故障とのこと。部品を運ぶことに手間取っているというアナウンスが成田の待合室に流れていた。乗り継ぎのドイツのフランクフルト(だったと思う)では遅れて到着の身に、飛行機の到着待ちの乗客の視線が抗議を帯びていて、身を小さくした。流石に2時間の遅れは取り戻せなかった模様で優に1時間は遅れていた。さて、ズーリッヒのホテルは直ぐには見つからずに知らない街をウロウロ。駅に戻って地図を見直して出直し。初めの見当とは90度も違っている。午前0時近いチェックイン。朝、家庭的なモーニングにホッ と。列車に乗ってジュネーブに。インド人のご夫婦、多分外交官夫妻の席と隣合わせに。彼らの荷物の多さに呆れた。
 平和の間での美術展を見て、セレモニーにも出席してさあーってスイス巡りの始まりはレマン湖を船でモントルーまでの旅。湖面は穏やか。フランス領のエビアンに寄港したりして、途中の風景としてオリーブやぶどう畑の他に結婚式にあったり退屈しそうになるほどの長時間を乗船。モントルーからはインターラーケンまで電車。天井がガラス窓の明るい明るい電車。先を急ごう。登山電車に乗ってユングフラウまで。ブリークを通ってイタリアのドモドッソーラに一寸。ここで夫の金城に電話を。かけ終わってホームに戻ったところで忘れ物。電話のところに。ホームにいた小父さんに“荷物をお願い”と英語で。走っていって忘れた日程表やらの書類をピックアップ。また走って走って戻った私に件の小父さん、“電車は遅れているよ”と、イタリア語。ああ息が切れている私はようやく“ありがとう”。ドモドッソーラばんざーい。ここで私の靴が壊れた。アメリカの地方都市で買ったイタリアものの大好きなスニーカー。かかとの縫い目が破れた。走ったからね。ここから乗り合わせたアメリカ人の親娘が私の左足のスニーカーをしきりに気にしている模様なので「とうとう壊れました、フィラデルフィアで買ったんです」というと、私たちフィラデルフィアから来たんです、と言う。すっかり親しくなった。イタリアからスイスに再び電車が入るときに駅員に言ってパスポートに入国印を押してもらっていたら、娘のほうが国境?と聞くのでそうよと教えてあげる、と、真似をした。駅員の若者は再び彼女のパスポートを手に駅舎に走って押印して戻ってくる。その間運転手は何事もなさそうにじぃーと待っている。他の乗客もしかり。ドモドッソーラの小父さんも。
 さて、ドモドッソーラから夫の他にTELしたのは、ズーリッヒのホテル。とても遅くなるということを。部屋が無くなっては困るので。ロカルノからアメリカの親娘は南下。ルガノに行くという。小父さんも降りてアルベデルチェ。さようなら。私は一路ズーリッヒへ。途中で乗り換えがあって又走る。ホームからホームへ。乗り換え1分程。セーフ。さて、ようようズーリッヒの駅に到着。夜12時近い。バーンホーフ橋を渡ってと、と、ホテルがない。うわーっ。まただ。どうしよう!と、どうしたのと若者が近寄ってくる。ホテルがないの。パニックにならないで。道が一本違っているよ。と。バーンホーフ橋と思ったところは違ったらしい。ああやれやれ、ズーリッヒの街並みは判り難い。ありがとう。というと、“ところで少し散歩をしない、今宵は月もきれいだし”と。勿論フランス語で。わたしをお誘いあそばす。明日の飛行機の時間がとても早いの、残念ながら。といってチャオ! 最早0時をまわった。途中で電話を入れておいてあるから大丈夫と、ホテルに急ぎつつ空を見上げる。月?きれい? 月どこ? 月のない夜。“今宵は月もきれいだし” 月 月? 少し散歩しない ? う? 今のはいわゆるナンパ?なんぱだ。フランス語で?イケメンよりもイケメン。金髪の背高のっぽさん。わたし、おばさん。今よりはずーっと若かったけれど。明日本当に、エアーが早いのッ。という訳で生憎にもホテルにチェックイン。ホテルは前よりもグッと良いお部屋でバスタブがあって広かった。ゴールドカードの恩恵。湯舟につかりつつ「今宵は月もきれいだし」というフランス語を繰り返して、日本にこの気分を持ち帰って出来た絵が「 桜 月 」。たくさんの国から賞を戴いた。さらに4冊の文献に掲載した。スイスのズーリッヒ赤十字からもなにか認定書をいただいたがこの件は経歴には・・・今見るとないので、あらためて見なおします。
 長くなりました。-- チューリッヒ朧月夜のまよい径 桜ときめく名残のときと-- 祐子詠

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