• 17.9 x 13.9cm / 2007
  • 53X45.5cm/ 2007
  •  90.9x72.7cm / oil on canvas / 2009
  • 53.0x53.0cm / oil on canvas / 2010
  • 14.3 × 12.2cm / oil pastels on paper / 2012

第50回 多田祐子展  鎌倉古陶美術館・北鎌倉駅下車

 9月15日(火曜日)からおよそ一月間の展覧会が迫った。
新美術新聞:(株)美術年鑑社が掲載してくださった情報をいち早くお知らせします。
 多くの方にご高覧戴けますように祈ります。

今年は訃報に接することが多い
逝きしひと多き晩夏の花火なり 
海辺の山の端天に夕顔
金城の誕生日とて佐島に夕餉のお刺身を
おご っ たのです逗子の花火が見られるとは
予想外2倍楽しみました

松竹大歌舞伎 近松座公演 見る

 9月1日は全国防災の日。ラジオは一日中防災関連の番組編成。そういえばここしばらく新しい防災グッズを準備して、いない。旧くなったと捨てたり、元に戻したりして後はそのまま補充しなかった。玄関に置きっぱなしのダンボールの丁度良さそうな大きさの箱に、新しく何かにと準備しないとなりません。地震の多い最近です。台風と一緒に地震災害が発生したならという心配が杞憂に終わることを祈るのみです。
 さて、午後2時からの大歌舞伎 近松座公演を横須賀芸術劇場に夫と楽しんできた。午前中に銀行や郵便局そしてスーパーと、用事をしたが前日の台風のお陰で何れも大混雑。銀行は大晦日なみの行列。葉山町役場にある横浜銀行派出所でさえ5人待ち。普段は一人も並んでいないのにと、腕時計とにらめっこ。スーパーで買ったお弁当を食べて開演15分前に劇場の指定席に到着。予約に手間取って今回は生憎と後ろの方。予約のタイムにかかってきた電話を素早く切ることが出来ずにいるうちに20分程が過ぎ、台詞が聴き取りにくい位置。夫が一言。後ろ過ぎる。舞台全体が見渡せたにしても、オペラグラスが要る距離。次の大蝋燭能は大丈夫。まえから4列目です。
 近松座。坂田藤十郎さんの御挨拶・お目見得が良かったです。気が利いていましたし情がありました。“くどいようですが”の2回使いは私も使わせてもらおうっと。
河竹黙阿弥 作「連獅子」 では修験者の中村亀鶴の舞踊が私には良かった。フアンになりました。

 今遊んでいるのは来年の展覧会のためではなくその次にくるだろう展覧会に向かった遊びです。よくよく遊んでいないと満足する絵が出来上がりません。勿論キャンバス上でもあれこれ四の五の遊んでフワッと仕上がるのが心地良いのですがね。くどいようですが、私はデッサンが出来ているものは硬ーくしか仕上がらないので納得がなかなかいかずにとても苦労するのです。毎度フワッと仕上がる事を期待しつつキャンバスに向かう。「連獅子」の村娘 中村壱太郎さんが着けていた淡い色ばかりの舞台衣裳。着物、帯。あそこを目指そう。と思った。淡い色ばかりで描く時はしっかりと地塗りを終えていないと後悔する。地塗りをせずにとても気に入った絵が目の前に現れると10日間以上は頭が痛い。ほとほと慌てて描く自分が嫌になる。壱太郎さんの着物からそんな後悔したことばかりを思い、ボツになった淡い名作?が脳裏を駆け巡っていたのです。

では、今月15日からの北鎌倉駅40mの鎌倉古陶美術館での展覧会にお運び下さいますようにお願いいたします。古陶器とのコラボレーションです。

爽やかな夏

 蝉の鳴き声がちょっと少ない今年の夏。渡ってくる風がここしばらくは爽やか。最早秋の気配濃厚。高校野球放送をラジオで楽しみつつ9月15日からの鎌倉古陶美術館での展覧会の準備をしている。数が多いので展示のシュミレーションをしたり、赤い紅絹の布地で看板暖簾をつくったり。昨日額装に小品のパステル画34枚を出し、ホットしている。
いじっているうちに何やら汚くなってしまい初めの爽やかさが損なわれていく。いつものジレンマ。底が深いままで爽やかな作品はやはりしっかりと地塗りが要る。
 さて、天地に変異の多いこの夏。地震が続いた時には心配した。いよいよ大地震が近いのか。荷物が多すぎてかたづけようがない。このまま荷物との闘いは先送りだ。
 昨日福岡県の直方市の知り合いから葉書があって、北鎌倉の展覧会に来てくれるという。故郷の従弟たちも来てくれる。こちらはたまたま都内で甥の結婚式があるそうな。
高校時代の友人コレクターや元画廊勤務のベテラン女性たちが、飾り付けの日に駆けつけてくれることになっている。神戸の方からも泊まりがけで予定してくださっている方がある。期間が長いのでその分楽しみも多い。
 ところで今朝早くゴーヤーが届いた。23日に、祭礼の振る舞いに料理するチャンプルーようにと。大きめが8本。有り難い。その少し前にキュウリが届いた処だったので、今日はどういう日。良い日だねー。まだ顔も洗っていない時間でした。玄関先で失礼したのです。有り難うございます。祭礼が終わり次第また展覧会に向けて緊張しましょう。

雨にしょんぼりでした。

 今日7月22日の日食をとても楽しみにしていました。部分日食であってもかなり欠ける太陽を見ようと、19日の日曜日には、大きめのダンボールを用意して、小さな穴をあけたところに、アルミホイールを貼り、そのホイールにさらに小さい穴をうがち準備万端。ダンボールの底に月のような影ができるはず。だった。「日食の観察」の仕方で一番簡単な方法みたいと。あとは上空の水蒸気次第だった。皆既日食はメディアを通して観るしかない。朝。雨の音。空を見上げる。雲が厚い。9時半になっても10時になっても、厚い雲は垂れ込めたまま。小雨も上がる様子がない。玄関では手作りの日食観察ダンボールが横たわったまま。10時ちょっと過ぎに日本郵便の配達の女性がやって来たので、雨で残念ねぇと見えない日食の話しをしながらもなんとか晴れ間がやってくることを期待。ダンボールの準備までしたことを話題にする。彼女の小学生の息子さんは学校へ行ったそう。先生の指導があるそうな。雨の所為とともに上空では欠けていく太陽のせいで室内はだんだん暗くなる。蝉は啼かない。単なる雨の所為? 雨は小降りになっても雲が厚い。とうとう時間切れ。幕切れ。なんともしかたのない一日。2035年までお預け。26年後。生きていよう。
子供のころに黒い下敷きを通して日食をみたことがある。部分日食だった。その頃は紫外線の危険は言われていなかった。今のようにオゾン層の破壊が無かった頃の時代。
同じく雨で観られなかった人々や飛行機に乗って雲の上で観た人たち、奄美諸島や鹿児島県で観た人、東京都下でもほんの一時、雲の切れ間から観ることの出来た方達の話しを聞いて今日の「世紀の皆既日食」の一日は終わりました。悪石島に出掛けられた人たちと同じくらいに私もがっかりでした。少し「輝く闇」を見たかったのです。

イタリアの旅 その2

 ローマの聖天使城(サンタンジェロ城)の屋上で一人旅をしている女性の河野○○さんと出会った。色々なところにご一緒したあとホテルに帰ることになった。すると同じホテルでしかも同じ階。そんなことに驚きつつ、夕食も一緒にしようとなった。シャワーを使った後に街に出る。スペイン広場にほど近いホテルだった。彼女にトラットリアを教えて頂いた。いわゆる大衆食堂。この先の旅は多いに助かったのである。フィレンツェで地下にあったりするトラットリアに通った。まあおおざっぱな盛りつけで量が多い。小魚の料理などは二人で一皿が限度。夫は母親が逝って、一年は禁酒、を自らに課していて飲みたいワインをこらえていた。ビールも飲まずの旅。そんな旅の途中の夢でとうとう飲んでしまった。朝目覚めて、飲んでしまった夢のはなしを聞いて可哀想になったが自分で決めたこと。やはり帰国しても秋の一周忌まで禁酒を守っていた。ローマでもフィレンツェのホテルでも2日目の朝、3日目の朝と朝食の時のパンの数が増える。4日目ともなるとお昼の分としてテイクアウト出来そうなほど気前よく下さる。愛想もすこぶるよくなってくる。
 ミラノの鉱物博物館では髪の毛のような鉱物、綿花に近い鉱物を知った。夫はダビンチの美術館でダビンチの発明品に感心していた。当時はルネッサンス500年祭に向けて、イタリアのあちらこちらでは修復の作業中。バチカンのシスティーナ礼拝堂しかり、トレビの泉しかり。足場ばかり多くて、トレビの泉には水すらはいっていなくて、
乾いた噴水に後ろ向きにコインを投げ入れてきたが、その後まだイタリアに行く機会がない。衛兵がまとうミケランジェロによるデザインの制服。しっかりと撮影してきた。気が利いた美しさの代表みたい。
 ヴェネツィア。サン・マルコ広場で月の光を浴びつつ<音楽>を堪能。ガラスの島ムラノ島にも行った。ここで買い求めたピンクのコーヒーセットは夫と、いち、に、さんでどれが好いか指さして、同じセットだったがためにどちらともなく買わざるをえなかったもの。趣味が合うときが多い。困る。ということもある。諦めることが難しいんで。
 2003年の10月、イタリア/ルネッサンス500年祭の折に開催された展覧会で、コスタンツァ・デ・メディチ芸術褒賞をいただいた。そして「メディチ文化協会正会員」の認定を受けた。12月の「バチカン聖なる創造展」では、招聘出品ということであった。私は私の絵と共にイタリアには行くことが出来なかった。アメリカとフランスに行ったあとで、9月のロシア サンクトペテルブルク建都300年祭の招聘出品に応じるのが精一杯だった。その後サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館収蔵の時にも私の絵のみが行ったのであった。2007年3月のモナコ行、7月のイタリア・ヴェローナ行きとマレーシア行、9月のロシア行、11月やはりイタリア・アッシジ行きと残念ながら私は行かれなかったのです。Too much でありました。
 夫はローマにホテルを買おうかと言っていたのですが、将来の分のお金を含めて私が全て使い果たしました。ハイ、ごめんなさい。

1990年5月〜6月のイタリアの旅

 去る五月に友人の一人がイタリアに行ってきたという話しをしてくれた。急に思い出したのがミラノでの体験。夫と二人で旅をしたのは1990年の事。添乗員なしの全くの手作り旅。トーマスクックの時刻表と電子手帳・翻訳機をともにローマに4日、フィレンツェに4日、ベネチィアに2日、ミラノに3日間滞在した。ローマからは電車でナポリに行き、ポンペイやソレント、青の洞窟にも足を延ばした。ナポリからハイヤーを駆った訳で、いろいろと話しはあるが、青の洞窟に小舟を操って案内してくれた青年はチップをねだるとき、私の手元の財布をのぞき込んで、マダム、と言っては自分の思うとおりのところまで貰おうとした。けしからん!。それにつけてもあの洞窟の碧、蒼、あお。美しかったことったらない。オパールのあの透明な色が洞窟の中にあった。いまだに思い出すことが出来る。ハイヤーの運転手と別れ際に入った店で買った小箱を今も大切にしている。運転手がオルゴールのことを説明しようとしてミュージックボックスという。ミュージックボックス?そんな大きいものは要らない、と思った。とにかく店に入ってみると、オルゴールやさん。どれもけばけばしい。うち忘れられているらしいほこりまみれの一番地味な小さい音のない小箱を見付けて私は買った。
話しが長くなる。急に思い出した話しというのは、ミラノのスカラ座でのこと。講演はなくて生憎と思いきやなんと、小澤征爾さんの総稽古の様子を見ることが出来た。オペラの衣裳などの展示物を見ていてつい劇場を覗いてみたくなった。夫と重たいドアを押し開いて中にはいるとき、警備員さんはOK。ラッキーとばかり、その稽古ぶりを眺めていた。20〜30分過ぎたか。と、突然、なんと小澤征爾さんの登場。今日は総稽古だったらしい。小澤さんが現れて稽古に変化が著しい。奥の方にいた人が前に来たり、歌っている人が変わったり。私たちは時間を忘れて、ドンドンと変わっていく舞台に夢中になった。そしてその時に合点がいったことがある。絵を描いていてドンドン変わっていく事と同じ“さま”によく似ていたことだった。
私は熱くなった。夫にも同意を求めて、「変化は当たり前」を実感。嬉しくなってどれほどの時間が過ぎたものか。ミラノに感謝した。
ミラノは旅の最後。夫の花粉症が突然発作。薬局に私は行かされた。電子翻訳機を手にして“花粉症ですが、薬をください”と示す。その電子翻訳機が面白いらしくて、店中の
売り子さん、薬剤師さんが集まってきた。店の外では夫が何事かと心配している。19年前の話でした。イタリア。ありすぎる話しはまたその内に。

1999年9月と2000年5月のニューヨーク

 ニューヨーク在住のペルー人、フェルナンド・ポマラーザさんに彼が仕事場にしているプリントショップに連れて行ってもらった。初めてのモノプリント体験はとても面白くて、一週間契約した。初日は工房で作品作りをするフェルナンドさんやポーラさんの仕事ぶりを観察。いろいろな紙類が必要。フェルナンドが教えてくれる紙の数々を早速仕入にダンタウンに。翌日からみんなに真似てサンドイッチやおやつの菓子類を持ち込み一日中プリントショップにいりびたり。使用料が安くないから旅人のわたしは一週間しか借りられない。ここでいくつかのモノプリントを作った。紙をまずお風呂のように広い水槽で濡らし、余分な水分は別の紙に吸い取らせる。でプラスチック板に描いた絵のうえに紙を置き輪転機で回して紙に転写。この輪転機が重い。たびたび人の力をお借りする。フェルナンドさんや今はもう故人のやはりペルー人(名前忘れてすみません)の版画家に頼んだ。で1日乾燥させた後は厚い板の重しで数日寝かせ、モノプリント、一点物の出来上がり。日本でもショップがあるなら制作をしたいところ。道具類は重たくて大きな物ばかり。様々な機具が必要。後にも先にも一度きりの制作になった。翌年この工房に行ってみると移転して行き先が判らない。フェルナンドさんに今度聞いてみよう。ここで作ったいくつかのうち(10点制作)の油彩がほとんど手元にはない。最後の1日は油では乾かないので水彩を使ったが、描く先から乾くので、5分位で描かないと転写に成功しない。じっくり良い作品を描くには前もっての準備がいる。それでも5点描いた。即興だった。工房風景と作品をご紹介します。

1999年9月モノプリント工房
背中を見せているのがフェルナンド
2000年5月ニューヨーク・ブルックリン
道の途中で梱包し直し中の金城。夜。
近藤愛子氏収蔵「ときめき」
「よろこび」

レリア・ピサロ氏からの認定証

 フランスの画家カミーユ・ピサロ(1830〜1903)は芸術運動、いわゆる「印象派」をけん引した一人であった。そのカミーユ・ピサロの曾孫レリア・ピサロ氏から(株)芸術書院を通して、認定証が届いた。レリア・ピサロさんとは面識はいまだない。氏は(1963〜)現在ご主人のデービット・ピサロ・スターン氏と共にカミーユ・ピサロをはじめピサロ家4世代に亘るコレクション、および著作権管理人をしておられるそう。文中の「高貴な精神」、「比類なき至高の極み」といったお言葉には多いに恥ずかしさを覚えるのだが、思わぬ認定証を頂戴しましたので掲載。近日、フランスの評論家クリスティーヌ・モノー氏からの批評文にも「至高の表現を目指す存在」とあった。悪態をついてばかりいる多田祐子としては身の置き所を失うばかり。しかしコレクターの方々にはご報告しなければ。?。

レリア・ピサロ氏からの認定証
訳文
花見の4日目は鎌倉の齋藤百合子さんをお誘ひ
 
石段をはずんで登る百合子さん 95才と看花の宴
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