薄翅蜉蝣

玄関先の天井に訪問者を見つけ
ました


天井の一隅清し うす衣やすませ
潜む うすばかげろう
八月に入りました。
何もしなかった七月でした

鎌倉を散歩していて

 小雨のなか、鎌倉市の御成通りを歩いていると、祭らしく、鎌倉武将や、北条政子の幟旗が。日頃通らない路。たまには通ってみるものだわと、思ったのである。中に、大江広元の幟がはためいていて、夕刻の空に懐かしい紋を掲げていた。大江広元の紋所は在原業平、行平、大江音人の父親で、平城天皇の皇子阿保親王と同じである。いわゆる一品さん。大江広元の子秀光が毛利荘(相模愛甲郡毛利荘)に領し毛利を名乗るが、毛利の紋所は上の一がすこし太い一品。にわか勉強なので、詳しくは紹介できないが、私が平成17年の4月8日に、京都東福寺塔頭の願成寺に祭られてある阿保親王に絵画を奉納した際に、頂戴した「四ッ頭」があって、大切にしているのだが、紋所が、同じである。
 大江広元さんがその昔、相模の国におられ、鎌倉武将として馬上にあったかと思うと、フト通常とは違う路を通っていることに不思議な思いを抱いた今日の散歩であった。

御成通りで
源頼朝の幟
御成通りで
鎌倉の御成祭の幟
大江広元
鎌倉の御成祭の幟
願成寺から頂いた、『四ッ頭』
一品の紋
願成寺から頂いた、『四ッ頭』

暑中お見舞い申し上げます

 先日、日光東照宮に奉納した記事を載せた美術雑誌が送られてきた。bun-ten 文化展望Vol.46である。書店にも置かれるはずだが、なかなか手に入らないのではないかと思う。美術雑誌は売れ行きが芳しくないので、置いてある書店は少ない。県の図書館や美術館・博物館、各国大使館、それに加えて、東京都の各区立や市立図書館に配布されている。小さな図書館には生憎と届かない。今日は熱中症の心配がないくらい“ぼんやり”している太陽の下、その記事をブログします。ページそのものをと思いましたが、アップできないので、受納証をいただいているところの写真のみになります。エッセイは下記します。
       絵は先のブログご参照です。(3・26は我が家の壁にあったとき。4・14は日光東照宮・客殿での展覧会で)

「東日本大震災復興祈念ということで奉納が赦された『花回廊』は、震災の後随分長い期間筆がとれなかった時に、風に舞う花びらと、水の流れに運ばれる花びらをあしらった花の廊下を描いた。世界が花で結ばれる、というイメージだ。
さて、国力は経済に文化が伴ってこそであるという思いから国際文化交流には出来る限り参画してきた私は、世界文化遺産である日光東照宮に奉納出来たことを、画家冥利に尽きると思い、復興祈願展を嬉しく思っている」

4月13日・日光東照宮・客殿にて
受納証拝受
4月13日・日光東照宮・客殿にて

エジプトの旅

 1994年3月の話。だいぶ旧い。エジプトに一人旅をした。ニューヨークでの3回目の個展のあと、アムステルダムを経由しての9日間の旅だった。その前年、ルクソールで列車襲撃事件があって、日本にいる夫は電話の向こうで“行くのは止めにしたら−“といっていた。私は“列車には乗らないから”と応じて、計画を実行した。カイロのホテルはナイルヒルトン。エジプト考古学博物館のお隣。今日話題の、軍事クーデターなどで知られる「タハリール広場」からは、200メートルから300メートルのところにあって、ナイル川が部屋の窓いっぱいに眺められた。
 9日間のうち、ルクソールに1泊2日。アスワン・ハイ・ダムへの旅に一日。アレキサンドリアに一日のバスの旅をした。
 ルクソールでもアスワンでも日本語を習得したい若いガイドや、ファルーカ(帆船)を操縦する青年は愛想も良く、日本語を知りたがって集まってきた。“おしん”と言う言葉が挨拶代わりになっていたほどテレビドラマが知られていた。ルクソールでのガイドは左薬指にリングが光り、イスラム教徒ではなかった。王家の谷までの往復はトロッコを利用した。カルナック・アメン大神殿にでは、太い柱を見上げてはただただ感嘆。
 カイロに話を戻す前に、アスワン・ハイ・ダムでのガイドは、ナセル大統領の功績を讃えていたことを思い出す。遠い目をしていたが、何か大きな希望を持っていたのかも知れない。
 カイロ。ヨーロッパとは違った雰囲気を持った街と人々だった。ガイドは雇うと親切で、夜遅くなった翌早朝でも、すでにホテルのロビーで待機している。マァ、ガイドがガイドを雇っていて、余分に支払わされた? 気のすることもあったが、危険な思いは皆無。ホテルの売店で買った宝石はまぎれもない偽物ではあったけれど、それとて、高価なものではない。
 タハリール広場では、向こう側に渡ろうと車の流れの中を泳ぐようにして人が渡っているのを真似して、渡った。帰りがまた大変。信号は果たしてあったものか、いまもって不思議だが、幸いに事故には遭遇しなかった。
 ギザでピラミッドを見たり、ナイル川クルーズは運良く、日本語を話し、日本人が大好きというチリー人のレヒナさんと出会っていて、アレキサンドリアへの旅もご一緒した。レヒナさんは最早日本には居ない。
 ムバラク大統領の顔看板と日本車があふれていた1994年の旅は、旅行社のミスか、エジプト大使館の聞き違いから、ビザの日程が大幅に違っていて、その事を知らない私は、カイロ空港で警察のお世話になった。訳がとんと分からない私を相手に、ホテルは何処か?証明出来るか?といったやり取りがあった。ナイルヒルトンの今もらってきたばかりの、大型サイズA4の紙、8枚綴りをデスクにビラーっと、偉そうに広げて見せて、無事に通管した。あんな大きなサイズの領収証はもらった時には、なんでこんなに大きいのって、カバンに収めるのに苦労したけれど、レシート?っていうことで、あれが役に立つの、と、捨てなかったことをつくづく良かったと思った。
 それにしても、再度訪問したい国にエジプトを挙げている私としては、エジプト文明を貫く人間性尊重が結実したエジプト史を信じたい。ゆえに早期におおらかなエジプトに戻ることを期待している。(2009年4月・ブログP.25にエジプトの旅あります)
 

建築家の多田祐子さん来宅

 そうそう、27日木曜日に建築家の多田祐子さん夫妻が来ました。極々近所のオープニングハウスの壁を看てください、と、業者さんのお薦めがあっていらしたのですが、更には、これもご近所の現場の上棟式が夕方からある、というので、車を止めさせてと。幸い早めにいらしたので、お茶を。たくさんのご注文を頂いていて、次々と、設計図を引いておられる中に、私の絵をお持ちの人がいらしたのです。
 昨年だったか、神奈川県立美術館葉山館の近くに現場があって、一度見学に行ったのだったが、そこの建て主さんのお友達が、お姉さんが新築を考えているということから、
多田祐子さんのことをお姉様にお話ししたんだそうです。多田祐子さんって画家さんでしょ!??? で、その後、建築家の多田祐子さん夫妻に会って、お話しはまとまった、とのこと。
 この絵でしょ?と写真コピーを見て貰いました。庭の雑草類を描いたものでした。題名は『花火』でしたか? もう一枚は、『隅田川』という題名で、歌舞伎や浄瑠璃を良くなさる女性。しかも日本画も描かれ、アトリエも設計図に入っているそうな。<すみだがわ>に惹かれてお買い上げくださった“さきこ”さんのことでした。銀座一丁目での展覧会には、骨折なさった足を引きずって、来られましたが、その後のDMは届いていたのでしょうか。名簿の点検が必要と判ったのです。

 それから多田祐子さんには、ウイルス性の風邪ではないから移しません、と言いましたが、大丈夫でしょうか?
ちなみに夫には移った試しがないのです。ヘナチョコ風邪なんか移るか、と言われています。

富士さんおめでとう!

 富士山が世界文化遺産の登録認定を受けて一週間が経つ。先週の土曜日には午後4時半頃には決定をみるか と、ラジオに耳を傾け、速報を待っていた。なかなかその速報が流れない。なにを揉めているやら、と気が気でなかった。果たして、「三保の松原」を含む文化遺産登録、というニュースが流れた。午後5時半だったか。諸外国の方々が、『三保の松原』を含むことで、推して下さったことが分かり、嬉しいニュースであった。様々な課題を抱えていることは勿論理解しているが、とにかく、富士山がいまだに、世界遺産ではなかったということだったから、いかにゴミなどに関連したことが障害になっていたかがあらためて判った。
ともかくおめでとう!富士山   入山料や屎尿問題は専門家に任せるとして、ゴミは個人個人のモラルに訴え、日本人のモラルの良さを発揮していただくことでしょう。
私の次回の展覧会のテーマは『富士山』。ここで世界文化遺産認定が決定をみなかったならば、、、それでも富士山にしたでしょう、きっと。

3日前の朝、“寒いなー” このままでは風邪を引く、と思いつつそのままにして寝ていたら、やはり風邪を引いた。一日で治すつもりが、微熱のまま3日間が過ぎ、とうとう昨夜は38,3°Cの熱に。あわてて寝て、今朝又微熱に戻ったけれど、作ろうと予定していたカレーが出来そうにない。夫に野菜を切らせて、と思っているのに、夫は物置小屋の屋根の
塗装をするらしく、一昨日は一日錆落とし。今、塗装用のローラーを買いに出掛けてしまった。高熱のことは秘密。医者に行け!と怒鳴られるのがせいぜい。夫の言葉に「寒い」は無い。暑い、暑いと言ってばかりいる。部屋の温度は23°Cか24°Cだというのに。本格的夏日には「暑い」が「うるさい」のです。 また。

びわとやぐるま 

暦通りに梅雨に入った日に詠む
枇杷の実はまづ生けにけり
梅雨の入り鈴なす房を青き壺もて



春の日に咲きし咲き継ぐ梅雨時も
姉が持たせし矢車の花
果たして、梅雨のずる休み、
だったのでし ょ うか
暦通りに梅雨入りしましたね。

我が家のあじさい

 雨が降らない。暦上では11日が入梅日。ラジオの番組報道では「梅雨のずる休み」などと云っている。 今年は北鎌倉古民家ミュージアムでのあじさい展には出展していない。展覧会の形でのお話しを秋にいただいた。近々あじさい展を観に行こうと、思っている。 一昨年と、昨年と買い求めた“山あじさい”が今、乾燥のなかで咲いている。その報告も兼ねて期間中には行こう。 名前が判らなくなったあじさいもあったり、咲いていないあじさいもある。あじさいを育てているあじさい名人に観ていただこう。 それにつけても、毎日水やりに勢を出さないとならない程乾燥しているから、生花を展示しているあじさい名人や、お弟子さんは大変だ。 我が家の山あじさいたちを。写真はいつも携帯で撮影。

アイ姫 でしょう
枯れそうな具合でしたが
アイ姫 でしょう
日が当たりすぎ?
シンデレラ と思われる
日が当たりすぎ?
深山黒姫
一番元気
深山黒姫
山アジサイではないのですが、ここは山なので
私の好きなあじさい
山アジサイではないのですが、ここは山なので

世界文化遺産登録間近 富士山おめでとう

 昨日北鎌倉古民家ミュージアムの館長・長谷川さんから展覧会の会場等、使用についてのお電話をいただいた。秋の事。有り難くお引き受けした。
今、美術年鑑社が刊行予定の、「日本の美Ⅴ・富士山」に載せて頂く「富士山」を制作。昨日、ほぼ完成か、といったところ。サインを入れた。
20号のミデアムサイズ。木花之佐久夜毘売命。ピンクの富士山。で、世界文化遺産登録間近の富士山をお祝いして、展覧会は“おめでとう富士山”とめいめいしよう。
9月25日〜10月20日です。北鎌倉駅下車、円覚寺並びです。

えじゃないか 富士山七つ桃色に染めてシャボンの向こうにあるの
                            祐子

初夏の思い出・Paul Ambille

 1989年、5月から6月にかけてフランスはパリの北70キロ〜70.5キロのところ、クレルモンに行った。今は亡きPaul Ambille ポール・アンビーユのもとに。やはり故人の馬郡俊文氏の勧めで、エコールアンビーユ参加したのだ。宿泊のホテルから広い麦畑が続く道をアンビーユの邸宅まで朝夕歩いて通った。夫は絵を描かないが、10号サイズのキャンバス5枚と4号サイズを持ったので、観光とカメラマンと荷物持ちを兼ねて参加。初夏は夕方が長く22時を過ぎてようやく夕焼けてくる。時間がたっぷりの2週間あまりを過ごした。主婦をしないで済む。
 私は持参のキャンパスに向かって初めの1週間は迷うばかり。ポールさんの庭に庭師が入って薔薇を植えたり、整備に余念がない。「5月のバラ」や「6月の庭園」「風化」
「ポールの窓」「芝生で昼寝」「KOO」を完成させた。どうにか完成させてポールさんの批評が欲しかった私は必死だった。題材を求めて門を出ると、足下の門の敷石がすり減っていて良い具合。直ぐにスケッチ。それが「風化」になった。ある日雨が降ってきて、馬小屋だった物置に場所を移して、描いたが、あの馬小屋はホントに具合が良かった。そこで、仕上がった絵が6枚。とうとう最終日には10号サイズ5枚を広げることが出来、ポール・アンビーユさんから批評をいただいた。長い文章であった。
 夫は、途中でパリまで2回行った。一度はル・サロンに出品するという参加者の一人に、荷物持ちとして連れて行っていただき、もう一度は、エコールの途中でウイーンに行くのだが、その切符を買い求めに、馬郡さんと。馬郡さんはまとめて日本の新聞を買いこんで来たのだった。ウイーンへは「寅さん」の撮影があって、寅さんのフアンクラブに入っていた夫に、ウイーンで、エキストラをやらない!という話しが、あったから、誘って下さったフアンクラブの人人と落ち合うためにウイーンスカンジナビアホテルに宿泊。ウイーンで3日間を観光や、エキストラを愉しんだ。竹下景子さんや淡路恵子さんとのツーショットもある。「寅次郎 心の旅路」の映画の初めに単線電車が田園地帯を走る場面がある。私のふる里、若柳だ。ウイーンで皆さんに会った時にはまだ知り得ていない。映画を観た時に うんっ!知っている風景??? ふる里だった。
このウイーンまでの行き帰りのハイヤーがまた面白い経験。クレルモンにある数少ないハイヤーを雇ってドゴール空港までとばした。帰りも迎えに来てもらうのだが、相乗りとなった。見知らぬご夫婦。あちらにとっても見知らぬ東洋人夫婦。クレルモンまでの間にそのご夫婦の館に到着。シャトーである。夫人は小切手を取り出して、運転手に渡す。
私はおもわず、ヴォートル メゾン?(貴女のお家?)夫人 ウイ。 私、写真かまいません? ウイ。で、アヒルやらが泳いでいる家の周りに廻す池を手前に、館を撮影。
運転手には相乗りなんて聴いていなかったが、ハイヤーが数少ないって知っていたので、文句言わずにクレルモンに帰った。夫と面白い気分を味わった帰り道。

 翌1990年8月。ポールさんは東京に来てエコールを開催。馬郡さんの企画だ。私も参加。ここでは20号サイズを4枚仕上げた。3日間だった気がする
 モデルを示されたり、与えられるが、私は抽象だから、その場の雰囲気や、その日の天気から着想して仕上げ、批評をいただいた。ポールさんは滅多に人の絵には触らない。
ジーッと観察なさる。4枚の内一枚はタイランドの内閣府に寄贈した。
 さて、そのポールさんを鎌倉や葉山をご案内した。葉山では丁度祭で御輿を担いで頂いた。夕食はホテルで。で、明日は夫の誕生日だわ!という私に、貴女は今日は結婚記念日だ、明日は夫の誕生日だわって、と大笑いしつつ高級ワイン“ドン・ペリ”を注文してご馳走して下さった。クレルモンで丁度結婚記念日となって、この絵は夫にプレゼントという一件があり、それを覚えておられた。この日は通訳の女性と、クレルモンに一緒に行って、夫がパリまで荷物を持ってボディガード役をし、パリを味わわせていただいた友人と、我々ふたりの計5人。

ポールさんも馬郡さんも今は天界の人。先日ふる里に行ったが、八重桜とフジの花が咲き、田圃には水がはられ、早苗が植えられて、栗駒山が田圃に逆さまに映っていた。
日本はお米。フランスは麦。ある作家と、ヴァン・ゴッホの話しをして麦畑を思い出したので、クレルモンの麦畑を思い、夕日を思い出した。

 そうそう、長くなりついでに。ポールさんの門扉にロープの先に捨てられたヤカンを取り付けて、ヤカンが音を立てるように工夫し、外に題材を探しに行ったアーティスト
がベルを鳴らして、いちいちポール先生を呼ばないようにと、絵を描かない夫が面白いことを考えたのでした。皆で、もっと早くに工夫してよ!と云って終わったエコールでした。

鎌倉八幡宮で1990年夏
ポールさんと夫
鎌倉八幡宮で1990年夏