ニューヨークレッドスクェアーシンフォニーハウス アルフレッドと住まひしを想ふ
「揄 雨」(雨垂れ のイメージ)という題名を付けて手作りの豆本歌集を出したのは2006年の2月。52冊という限定で、主にコレクターにのみ渡った。
カタカナ文字の歌が難しかった。という知り合いがいて、どれ? と聞くと、上記の歌。夫金城が可哀想だとのこと。ハハン。してやったり。
実は3つともアパートの名前でアルフレッドはコロンバス大学の近所。実に思わせぶりな名前で、誤解を楽しもうという気持ちが働いた。誰も言ってくれなかったからつまらない想いで数ヶ月が過ぎたころ、ひとりだけ感想を聞かせてくださった。後の人たちは皆引っかからなかったとしても、まず成功。きっと遠慮しているのだ、ということにした。
ニューヨークに行って初めはハウストン・ストリートにあるレッドスクェアーに縁があって住んだ。次に行った時もレッド・スクェアーだった。3回目が
シンフォニーハウスで、4回目がアルフレッドという。いずれも高級アパートだった。5回目6回目はコロンバスサークルの近くのホテル。この間に夫と
共に5月のゴールデンウィークに行ったときはブルックリンに住んでいたMoMoちゃんの処に厄介になった。で、9/11 の大惨事があった年の10月はギャラリーの主が自分の処に泊まることを望んでくださり、その気持ちをいただいた。毎日バスとサブウェイを一緒に乗り継いで24W,57丁目の画廊に通った。3歳年下なのに年上の気の使いようだった。次からはニューヨークで出会って友達になったChapaさんのアパートに2回お世話になった。
私は都合10回もニューヨークに行ったのだった。8回位と思っていたけれど、住んだところを思い出してみると違っている。
モノプリントの制作をしたのはホテル住まいの時。そのコロンバスサークルの近くのホテルに滞在したのは確か3回だ。ニューヨーク滞在中にアルゼンチンに行ったが、帰った時に泊まったからそれで3回だったのか。帰ったとき部屋が違っていて元の部屋に替えてもらった記憶がある。それも違っていれば
ニューヨーク行は11回ということになる。経歴に間違いがあってはならないので、もう一度記憶をたどらなければならない。アルゼンチンには日本アルゼンチン修好百周年記念事業“日本の秀作美術展”が開催されていて私も出展していたからブエノスアイレスまで一人旅をした。1998年9月だった。ついでだが、風邪をひいて日本領事館に行って風邪薬をいただいた。吉野さんという男性に。ここでお礼を言いたい。
レッドスクェアーの他にも初めの滞在時は3ヶ月間で都ホテルからMr.Claudというひげのアーティストのロフトにも住んだ。ロフトの破れ窓からジャズダンスの激しいレッスン風景を夫と一緒に見たが、いかにもニューヨークの稽古風景で、ミュージシャンのバックダンサーは斯くも激しいものかと深く記憶に残っている。Mr.Claudはその後何処かに住まいを替えた。彼の飼い猫の世話を頼まれての短い滞在だったが、ここで何枚ものコラージュ作品が出来た。勿論油絵も描いた。彼の奥さんのビデオでサウンド・オブ・ミュージックを4回も見た。奥さんは30回見たと言っていた。大きな鏡を使っての作品を制作していたMr.Claudのアパート名は生憎覚えていない。ソーホーだった。1990年12月に出掛けて1991年2月に帰国した。
画商Mr.Jainが次はいつ来る?と言ってメールをくれるのでニューヨークのことを今日は書いた。ではまた。