エジプトの旅
1994年3月の話。だいぶ旧い。エジプトに一人旅をした。ニューヨークでの3回目の個展のあと、アムステルダムを経由しての9日間の旅だった。その前年、ルクソールで列車襲撃事件があって、日本にいる夫は電話の向こうで“行くのは止めにしたら−“といっていた。私は“列車には乗らないから”と応じて、計画を実行した。カイロのホテルはナイルヒルトン。エジプト考古学博物館のお隣。今日話題の、軍事クーデターなどで知られる「タハリール広場」からは、200メートルから300メートルのところにあって、ナイル川が部屋の窓いっぱいに眺められた。
9日間のうち、ルクソールに1泊2日。アスワン・ハイ・ダムへの旅に一日。アレキサンドリアに一日のバスの旅をした。
ルクソールでもアスワンでも日本語を習得したい若いガイドや、ファルーカ(帆船)を操縦する青年は愛想も良く、日本語を知りたがって集まってきた。“おしん”と言う言葉が挨拶代わりになっていたほどテレビドラマが知られていた。ルクソールでのガイドは左薬指にリングが光り、イスラム教徒ではなかった。王家の谷までの往復はトロッコを利用した。カルナック・アメン大神殿にでは、太い柱を見上げてはただただ感嘆。
カイロに話を戻す前に、アスワン・ハイ・ダムでのガイドは、ナセル大統領の功績を讃えていたことを思い出す。遠い目をしていたが、何か大きな希望を持っていたのかも知れない。
カイロ。ヨーロッパとは違った雰囲気を持った街と人々だった。ガイドは雇うと親切で、夜遅くなった翌早朝でも、すでにホテルのロビーで待機している。マァ、ガイドがガイドを雇っていて、余分に支払わされた? 気のすることもあったが、危険な思いは皆無。ホテルの売店で買った宝石はまぎれもない偽物ではあったけれど、それとて、高価なものではない。
タハリール広場では、向こう側に渡ろうと車の流れの中を泳ぐようにして人が渡っているのを真似して、渡った。帰りがまた大変。信号は果たしてあったものか、いまもって不思議だが、幸いに事故には遭遇しなかった。
ギザでピラミッドを見たり、ナイル川クルーズは運良く、日本語を話し、日本人が大好きというチリー人のレヒナさんと出会っていて、アレキサンドリアへの旅もご一緒した。レヒナさんは最早日本には居ない。
ムバラク大統領の顔看板と日本車があふれていた1994年の旅は、旅行社のミスか、エジプト大使館の聞き違いから、ビザの日程が大幅に違っていて、その事を知らない私は、カイロ空港で警察のお世話になった。訳がとんと分からない私を相手に、ホテルは何処か?証明出来るか?といったやり取りがあった。ナイルヒルトンの今もらってきたばかりの、大型サイズA4の紙、8枚綴りをデスクにビラーっと、偉そうに広げて見せて、無事に通管した。あんな大きなサイズの領収証はもらった時には、なんでこんなに大きいのって、カバンに収めるのに苦労したけれど、レシート?っていうことで、あれが役に立つの、と、捨てなかったことをつくづく良かったと思った。
それにしても、再度訪問したい国にエジプトを挙げている私としては、エジプト文明を貫く人間性尊重が結実したエジプト史を信じたい。ゆえに早期におおらかなエジプトに戻ることを期待している。(2009年4月・ブログP.25にエジプトの旅あります)