「天の夕顔」「耽美の夜」「鏡に入る女」などで新感覚派として好評を得た中河与一は先の戦後に
ある誤解によって文壇から遠ざけられた、事実がある。
今、その誤解も解けつつあって、再認識される時代がやってきたことを、嬉しく思っている。
さて、その中河与一の祥月命日に当たる12月12日。23回忌であり、生誕120年の年が明年の2月28日の
誕生日である。数えでいうと今年が生誕120年であろうか。その辺りの数え方がはっきりしないままに
12月10日、中河与一が幹子夫人と眠る小田原の西照院伝肇寺で生誕120年記念祭を開催した。
かっぱ村の初代村長中河与一として、かっぱ村民はもとより、与一文学を愛する人たちに集まっていただいた。
夫人幹子氏は短歌の世界で活躍され、与一幹子両氏を慕う人もおられ、私もそうであるが、好天のもと
墓前に花を手向け、香を供えた。
文化講演も併せて開催できたことは、誠に幸いであった。
講師としては静岡県立大学名誉教授の高木桂蔵氏、元相模女子大教授で詩人、文芸評論家馬渡憲三郎氏、
かっぱ村2代目(現)村長大野芳氏、がそれぞれの立場からお話しくださった。
伝肇寺は通称みみづく寺といい、大正時代に北原白秋が庵をむすびたくさんの動揺を発表したことで有名。
12歳年下の中河与一はここに北原白秋を度々訪問しては、白秋と連吟したという。
連吟した歌の一つ二つをあげる
実山椒や蜂の子わかれ過ぎてのち 白秋
着物もぬるる梅雨の山道 与一
農談に夜ふけし頃は虫の声 与一
遠い火事だと雨戸繰ってる 白秋
ついでに多田祐子の10日の短歌
おもかげやそぞろ歩きに入り行くに足音並ぶ山門あたり
マフラーはレモンイエロー与一師の冬の身支度冬来ておもふ
好天に紋黄蝶飛ぶ墓地の花黄菊の多し夕顔忌かな
背におぶひ新幹線に乗り継ぎしことなど語る夫の与一像
ヴァン・ゴッホスタイルの中河与一・幹子夫妻のお墓
河名千絵-多田祐子の二つ目のペンネーム
序文 中河与一用箋とあり
昭和48年8月6日朝 とある。第一詩集の序文
船による旅の前日 とある