いまさら ありがとう ふるさと
2010年の秋いっぱい、宮城県迫桜高等学校(栗原市若柳)、あめやギャラリー(〃)、仙台市のSARPギャラリーと、3ヶ所で展覧会を開催させていただいた。9月27日から11月3日であった。
いまさらながら 有り難う故郷。
たくさんの思い出をくださったふるさとでの写真をあらためて掲載します。
2010年の秋いっぱい、宮城県迫桜高等学校(栗原市若柳)、あめやギャラリー(〃)、仙台市のSARPギャラリーと、3ヶ所で展覧会を開催させていただいた。9月27日から11月3日であった。
いまさらながら 有り難う故郷。
たくさんの思い出をくださったふるさとでの写真をあらためて掲載します。
雨女という名付け子。今日はほぼ雨の一日。彼女がホテルデビューしたのが、6才の頃。われわれが頼まれマレージャーとして、イベット・ジローさんの80歳引退公演をホテルで開催した時だった。花束をジローさんとご主人のマルク・エランさんに、お兄ちゃんと一緒に差し上げた時だったのと聞く。 あの時は、マルク・エランが「嵐が丘」と表現したほどの大嵐。海辺のホテルの大窓から、荒れ狂う波を他所に、ジローさんはエランさんのピアノにあわせて、音響のテストに余念がなかった。 12月。冬の海。大嵐。果たして、お客様は、一人も欠けることなく、近隣から、千葉から、京都から、ズブ濡れ情態でも駆けつけてくださった。 大勢のお客様。引退公演の前に2度開催していたが、名付け子の彼女は生まれる前、そして2歳くらいの頃であった。 シャンソン界の大御所のジローさんのコンサート。想い出は彼女の胸に焼き付いている。汚してはいけないと云われるドレスを着て、可愛らしい彼女はお兄ちゃんと一緒に、舞台のジローさんとご主人のマルク・エランさんに近づいてゆき、手に余る大きな花束を贈った。 あの時がホテルデビューだったの、と云う母親が、あの時と似たような雰囲気のところで、お食事会を企画しての今日。 で、立派な雨の日。波も荒く、白波が押し寄せる窓辺。22年間のうちの、学校生活では、緊急連絡先でもあった。お兄ちゃんともども。 親戚みたいな関係で、しかも多田祐子の作品の10点はお持ちくださっている。 15日が卒業式。ガウンに帽子着用の大学の卒業式というわけで、今日は振り袖を着て、フルコースのご馳走を我々も共にいただいた。 式服を借用して、おまけの記念写真。 おめでとう、そして有難うの一日。
3月3日。2月は忙しくもあり、のんびりもあり。の一月。まあほとんどが頸椎捻挫の痛みに七転八倒だったというのが、真実。
北海道は美唄市から舞台女優の友だちが来られ、国際交流に参加を薦める若者の来訪があり、同好会の新聞校正、同発送があって、終了した2月。
今朝、鄙を飾った。小さなおひなさまが他に2組あるが、今日は折り紙のおひなさま。
「第19回オアシス2014」は仙台市と大阪市で開催される。仙台市の方が、4月4日〜8日の5日間。会場は「せんだいメディアテーク」という定禅寺通りに面した場所。
宮城県生まれで、2010年の10月から11月にかけて、仙台市や栗原市で展覧会を開催させていただいた私としては、出品の要請があった段階で、応じたく思い、巡回展なので経費もかさむが、了解した。東日本大震災復興プロジェクトとあり、出品作品の絵はがきが販売される。
大阪は、5月16〜18日。京橋OBPツイン21・1Fアトリュウム。やはり京都で展覧会を開催した2011年10月〜11月の期間に、大阪市から友人や旧くからの知り合いが駆けつけてくださった。仙台市も大阪や京都も私の作品を初めて目にされる方が多く、まづは知って戴いた。なかで、個人美術館をもっておられる方が、モノプリントのシリーズ7枚を
お買い上げ下さった。旧い友人やかっぱの仲間もお付き合い下さって、コレクトの栄に浴した。
そんなこんなで、仙台市、大阪市、京都市と今回の巡回展のことを早くお知らせしたい。期間が極めて短い。
仙台市には、スペインからアルフォンソ・ゴンザレス=カレーロ氏が来日予定。会場を巡回しつつ作品解説をなさるそう。(仙台展総合監修)
ついでに、アルフォンソ・ゴンザレス=カレーロ氏は2002年の国際ビエンナーレに多田祐子の作品を招聘。スペインへは行かれなかった私に、私の作品の前で撮影された写真を送って下さった。出品作品は「ブエノスアイレス」(アルゼンチン)であった。
大阪市は、ジャン=フランソワ・ラリュー氏が総合監修
昨年12月9日から運行が開始されていて、葉山の路線バスからは遠い地域の住民対象で、通学通勤の時間帯に運行されているミニバスの認知度を上げよう!ということで、今日の夕方、J=COMに行ったのです。生放送とは聴いていなかったので、ちょっとびっくり。ミニバス運行運営方面のプロの人と一緒でしたから、私は相づちしていればいいのでしたが。ミニバスは下山口会館から茅木山下を通り、水源池からはノンストップで逗子駅まで20分程度で行くのです。朝の時間帯3便、夜は逗子駅から4便。自宅から3〜4分の所にバス停があって、座って、利用者同志コミュニケーションをとりつつ、路線バスとは違ったホットな乗り物なのです。是非多くの方に認知していただき、この先長く運行していただけるように、宣伝番組に出演しました。
写真は生番組のあとで、引き続き行われたお菓子の番組の方達と、スタッフ一同と記念に撮りましょうというJ-COM側の呼び掛けで、撮影していただいたものです。
お菓子の番組にも、右サイドで、お菓子を食べて下さいって、そのまま生放送に出たのです。
たった今、認定証の送付に預かった。予期せぬもので、認定があろうことなど思いもしない2013年版グランオペラ。パリ審査実行委員会より発行されている。審査実行委員会組織の再編成があって、発行の遅延が発生したとあるが、もとより認定があると聞いては居らず、グランオペラに掲載できただけで、2013年は良しとしていた。他にももちろんノミネートいただいて「富士山」(美術年鑑社・日本)掲載がある。これらはいわゆる美術文献。美術雑誌とは違う。掲載作品は「桜月」と「ダイアナ・DIANA」であった。
さて、認定証の和訳。「特別認定名誉作家」あなたの作品は厳正に選考されました。私は最も素晴らしい作品だと感じました。それは天性の才能が大きいのでしょう。我々は候補者すべてに感謝しています。あなたの更なる躍進を祈念しております。 2013年5月 審査委員長 ジャン=ジャック・ブルトン (Jean Jacques Breton)
Merci beaucoup
昭和49年4月下旬。これまでのジャングル生活から、かすかな物音にもさっと起き上がる小野田さんを気遣い、末次さんはホテルを準備した。事務所の2階は和室で、利用したようだったが、詳細は判らない。28日付けの色紙にサインをいただいた時は、ホテルの和室。事務局員3人で訪問している。にこやかな小野田さんと、果物やら、料理を並べた食卓が写っている。小野田さんは和服姿。
陸軍中野学校の同期とのことは「俣一会」といった。現在、末次さんは居らず、ご存命の方がおられたとしても91歳。小野田さん一行と松島観光をしたのは昭和49年9月15日。一泊の旅だったかどうか忘れている。
硬い様子の小野田さんを囲んで、みなさん楽しそう。何人の方が小野田さんの悲報に接したか、皆目見当が付かない、ここ2日。新聞は葬儀に関して、近親者で営む、とある。年末はブラジルに行って居られたそうな。
50年4月18日付けのお手紙がある。サンパウロ州リベイロン・ピーレス市からで、去る12日朝サンパウロ空港に到着しました、とあって、救出及び帰還後一ヶ年の間、種々ご心配頂き且つお骨折りいただきましたことは唯々感謝の言葉さえ御座いません。あらためてお礼申し上げます。中略 ブラジルを隣地にあるものとお考えになり、、、、略
6月初めより開発です。というブラジルに到着のおしらせ。これは私の井の頭時代。今から4年程前に本屋さんの隣に昔のアパートを探しに行った。ピンク色のアパートに建て替えられて、きれいに在った。持ち主は変わっただろうと、勝手に思い、買い物をした肉屋さんも確認して井の頭公園を散策。
小野田さんを知る共通の友人は82歳。昨年心筋梗塞で死にそうだったと。昨日電話が繫がらずいた。歯科に行って居られたそうな。
私の誕生日の前日が小野田さんの命日に当たるようになった。忘れることはないだろう。ご冥福を祈ります。
誕生日静かなりこの先々も一・一七 追悼の日よ (阪神淡路大地震)
小野田寛郎さんをルパング島に捜索に行き、帰国に導いた末次一郎さんの元で当時を世過ぎしていた私の思い出を、小野田さんの追悼を込めて記しておきたい。
昭和49年、50年は、「陸軍中野学校」という情報将校を養成する学校の卒業生、同期の方々が入れ代わり立ち替わり、捜索隊長の末次一郎さんを事務所に訪れて、フィリピンはルパング島に出掛けて行った。末次一郎さんは平成13年7月に78歳でその一生を一期とした。引き揚げ運動や沖縄復帰運動に取り組み、北方領土返還運動を促進し、安全保障問題研究会などを主宰。他に、「青年の船」や、「JAICA」の窓口となっていた。姉は「青年の船」で、仙台の短大を卒業後に、東南アジアの国々を巡ってきた。末次さんと我々の父親とは親交があって、私は学生の頃から、出入りしていた末次事務所に何時の間にか落ち着いていたが、掃除、電話番、会計など何でも担当。
小野田さん捜索の時や、安全保障問題研究会の京都会議の頃には、永田町の一軒家、総理府(当時)今は内閣府の直ぐ下辺りに事務所はあった。岩手県東京事務所が後ろにあり、植え込みに沈丁花の花が春一番で咲いて、その香りから何時も勇気をもらっていた気がする。
小野田さんの捜索隊の飛行機がフィリピンで炎上したことがあったが、さまざまな物資を調達する苦労が思い出される。当時は皆さん、洗濯のことなどからか、フンドシを準備した。直ぐに乾く、からだったと思うが。末次さんの奥さまは、あの時、はたして何枚のフンドシを縫ったのだろうか。私の苦労は、冬に蚊取線香を集めることだった。
お湯を注いででき上がるパック入りのご飯も、そうとう買いこんだ。事務所の中が一杯になるほどの物資が所狭しと積まれた。小野田さんに合う時のためにお赤飯のパックも準備した。政府による大捜索隊とは別ものだった。今は亡き青年探検家 鈴木紀夫さんにもお会いした。鈴木紀夫さんが単身乗り込んだルパング島。彼がいなかったら、山中で29年の間独り戦い続けた小野田さんは、どうなったかなど考えまい。鈴木紀夫さんは、ヒマラヤに雪男を探しに行き、標高3,800メートルの地点で、遭難。38歳だった。鈴木青年が亡くなった時「彼の勇気と機転がなかったら私は島を出ることはなかったでしょう」と、遭難現場まで慰霊の旅に出た小野田さんだった。若い冒険家との年賀状のやりとりは当然その時に終わった。
あれから随分と月日が流れ去った。小野田さん夫妻と再会したのは、末次一郎さんが亡くなって、ご自宅までお焼香に訪問した時。葬儀は青山葬儀場であって、中曽根康弘元首相が葬儀委員長だった。元首相の多く、議員団の列席を見、あらためて末次さんの偉大さを見た葬儀であった。その葬儀に間に合わなかったと言って、アメリカから友人が来た。大学時代の学外活動で一緒だった、野口君(今もニューヨークで事業家として活躍)。電話で、“一緒に行ってよ、僕お線香あげたい”。東京で落ち合って、世田ヶ谷のご自宅に、伺うと、小野田さん夫妻がおられた。あれからでも13年。私は “絵描きになる!”、ために末次事務所を急に辞めて、40年。辞めても“手伝ってよ” との事務局の声に、京都での国際会議や、小野田さんの捜索に関わった。安保研の京都国際会議ではいわゆる、あご、あし、やど担当。飛行機や新幹線、ホテル、食事の人数、時間、移動時間、入国時間、出国時間に併せて、宿泊人数の加減調整など。現在、どれほど役立っているか知れない。通訳はできなかったし、今以て語学はからっきし。当時通訳担当の人達とは今も昵懇にさせてもらっている。
今日、2ヶ所の新春展に行ってきた。銀座の文藝春秋画廊は明日で修了。朝早く、家の近くを通っている“ちょいバス”を利用して出掛けたので、銀座では開店準備中の様子を観察しながら、銀ブラ。窓ガラスを綺麗に拭いている男性、荷下ろしして、お店に運び入れる男性、入口に箒をかけている男性。男性が多く働いているのを見ながら。なかなか絵になっているが、スケッチブックを持っていないので、記憶に留める。
画廊が開くまでの間、4丁目交差点を向こう側にわたって、郵便局まで、事務仕事。サンモトヤマの地下にあった郵便局が無くなっているとは知らなかった。お掃除中のお店の主か従業員か知らないが、教えてもらったユニクロ店の2階には郵便局はありませんでした。
下北沢のスマートシップギャラリーのほうは、18日まで開催。(12日はお休み)まだ時間があります。どうぞお出掛け下さい。
昨年11月、タイランドで開催された日・ASEAN友好協力40周年認定事業/ 日タイ交流美術展覧会 の結果、届けられたバッチを新年の報告とします。12月中旬にいただきました。