葵プロジェクトのひとりとして
今年も葵祭が近づいた。育っている葵を今日、上賀茂神社に送った。4週間近く間があるので、上手く上賀茂神社の境内で根づいてくれるように、早めに送った。今年も葵の里親の務めが果たせて一安心。
今年も葵祭が近づいた。育っている葵を今日、上賀茂神社に送った。4週間近く間があるので、上手く上賀茂神社の境内で根づいてくれるように、早めに送った。今年も葵の里親の務めが果たせて一安心。
仙台市では高校時代の同級生が9人も来てくれました。仙台市在住の従弟夫婦は2日続けての来場。具象画を描く従弟は、あんたの絵はわかんない、って云う。牛タンランチをご馳走になる。
2010年の展覧会の時に見てくださった方が小さなおんなのお孫さんを二人連れて来られた。また別の方も見にこられ、作風が変わったねぇ、とのこと。
弟夫婦とその二人の孫、嫁さんに(二人の子のママ)、彼女の母上さまと大勢が見てくれました。
やはり2010年の展覧会の時、栗原市の若柳・あめやギャラリーで、たびたび留守を守ってくれた同級生も(高校時代の)駆けつけてくれた。
二日間の滞在でしたから、あとの3日間はどうだったのでしょう。気になるところです。
同級生の9人目の彼女は、小学校、中学校、高校とずーっと一緒でした。
子どもの頃は家も近く、彼女のご長女の名前が祐子。その祐子さんのご長男が今年大学生になったというはなし。
いろんな話をデパートの食堂で、夕食をいただきながら1時間20分。デザートもおごっていただき、新幹線は予定より遅い時間になったのですが、折良く「はやぶさ」があって、あれこれ回想しつつ、 スピードに乗って帰宅しました。
皆様ありがとうございました。充実の2日間でした。
4月4日、東日本大震災復興プロジェクト芸術祭が、いよいよはじまりました。 定禅寺通りのせんだいメディアテーク6階が会場です。 昼頃に私も自分の絵と対面のために仙台市に参りました。 今日明日までおります。 仙台市にご用のある方は、是非ご覧下さいませ。バリアフリーの会場がお待ちしております。 何にも増して、ヨーロッパの作家の方々の作品も仙台市で同時にご堪能戴けます。
日・ASEAN友好協力40周年認定事業 日タイ交流美術展覧会が昨年の11月にタイ国立シラパコーン大学アートセンター・サナムチャンドラ・アートギャラリーで開催された。その時の模様は既に写真でお知らせいただいていた。
今日、エイプリルフールの4月1日、世界芸術文化交流会理事長賞が送られてきた。出品作品の掲載誌と共に。
出品作品は「早冬」サイズはサムホール。小品。月の別称で11月のこと。
赤い色やピンクの絵しか知らなかったが、こういう絵も描かれるのですね。といったところ。
理事長さんはタイ国立シラパコーン大学の芸術学部長、アマリット・チュスワン氏。ベネチュアビエンナーレなどに出品なさる先生なのです。有り難うございました。
実は迫桜高等学校での展覧会は2度目。今回は迫桜高校の10周年を記念して、短い期間でしたが、開催していただきました。初日に母校、有賀小学校から全校生徒の訪問をいただきました。高等学校側が、テスト期間中だったと思います。午後ならというご厚意で児童教職員合わせて72名の訪問です。このままあめやギャラリーに、移動してくださって、小品の数々も覧ていただいたのですが、ギャラリーのオーナーが「花火を揚げたかった」と云うほどの出来事でした。私も『町にはギャラリーがある』ということを認識いただいて嬉しかったのです。その後高校時代の同級生がまとまって35名で訪問してくださったのです。その時私は、仙台市の会場に行って居りあえませんでした。残念でした。
掲載の写真は感想を聞かせていただいたいるところです。あれから3年半、高校生になった人もいるんですね。
荒砥沢崩落現場写生会では、地元の長老5名の方が見守って下さって、お天気も快晴。
人間の顔がそれぞれ違っているように、それぞれが描くイメージも違って善い。自分のイメージを大切に、他人(ひと)真似ではないものに挑戦! ひとのイメージしたものを尊重しよう。と。準備から、5〜6時間の写生会はお昼ご飯を挟んで、発表会もしたのです。
ご準備くださった方々にその後お礼もしていません。ありがとうございました。ブログ2010年11月9日(24ページ)参照
オーナーの伊藤雄三さん ありがとうございました。
仙台市センダイアーテストランスペース(SARP)での模様
2010年の秋いっぱい、宮城県迫桜高等学校(栗原市若柳)、あめやギャラリー(〃)、仙台市のSARPギャラリーと、3ヶ所で展覧会を開催させていただいた。9月27日から11月3日であった。
いまさらながら 有り難う故郷。
たくさんの思い出をくださったふるさとでの写真をあらためて掲載します。
雨女という名付け子。今日はほぼ雨の一日。彼女がホテルデビューしたのが、6才の頃。われわれが頼まれマレージャーとして、イベット・ジローさんの80歳引退公演をホテルで開催した時だった。花束をジローさんとご主人のマルク・エランさんに、お兄ちゃんと一緒に差し上げた時だったのと聞く。 あの時は、マルク・エランが「嵐が丘」と表現したほどの大嵐。海辺のホテルの大窓から、荒れ狂う波を他所に、ジローさんはエランさんのピアノにあわせて、音響のテストに余念がなかった。 12月。冬の海。大嵐。果たして、お客様は、一人も欠けることなく、近隣から、千葉から、京都から、ズブ濡れ情態でも駆けつけてくださった。 大勢のお客様。引退公演の前に2度開催していたが、名付け子の彼女は生まれる前、そして2歳くらいの頃であった。 シャンソン界の大御所のジローさんのコンサート。想い出は彼女の胸に焼き付いている。汚してはいけないと云われるドレスを着て、可愛らしい彼女はお兄ちゃんと一緒に、舞台のジローさんとご主人のマルク・エランさんに近づいてゆき、手に余る大きな花束を贈った。 あの時がホテルデビューだったの、と云う母親が、あの時と似たような雰囲気のところで、お食事会を企画しての今日。 で、立派な雨の日。波も荒く、白波が押し寄せる窓辺。22年間のうちの、学校生活では、緊急連絡先でもあった。お兄ちゃんともども。 親戚みたいな関係で、しかも多田祐子の作品の10点はお持ちくださっている。 15日が卒業式。ガウンに帽子着用の大学の卒業式というわけで、今日は振り袖を着て、フルコースのご馳走を我々も共にいただいた。 式服を借用して、おまけの記念写真。 おめでとう、そして有難うの一日。