1997年6月、国際平和美術展が国連欧州本部の平和の間において開催されたこの時、私はスイス一周の旅をした。
ジュネーブのホテルから歩いていける距離のレマン湖をモントルーまで船に乗り、天井がガラス張りの電車に乗って、インターラーケンまで。インターラーケンの駅から徒歩で行けるホテルを予約してあって、一泊。翌朝は雨で、インターラーケンの駅のロッカーに折りたたみ傘のケースというか、袋を忘れ、今もその折り畳み傘を使っているが、おかげでインターラーケンの駅を思い出す。
インターラーケンから登山電車に乗ってユングフラウヨッホまで行った。赤いポストに日本に向けてハガキを書き夫宛に出した。
さてここからまたインターラーケンまで戻り、ブリークという駅を経由。このブリークという駅でリフトはある?ときき、駅員が指差す方に
走った。乗り換えの時間が短い。今日本人が走って行った、とかなんとか、無線電話で伝えてくれた様子で、電車は待っていてくれた。
車掌さんが笑顔で迎えてくれたことで判る。短い2両編成の電車。しかしこのときに走りに走ったので、私の靴は右足の後ろ側が糸が切れてしまいちょっとみっともなくなっている。スーツケースから代わりの靴を出す暇がない。
女性の親娘連れがそばに乗っていて、その靴を見るもんだから、私は”「フィラデルフィア」(アメリカ)(因みにイタリア製)で買ったお気に入りの靴が壊れたわ”と言い訳をした。すると親娘はびっくり顔。なんとフィラデルフィアから来ている旅行者。すっかりニコニコ顔で、国境のところで、長く停車する電車を降りてカメラであたりを撮影していると、ボーダー? と聞いてくる。そうよ、と応えると、電車から降りてきて、車掌さんが戻ってくるまで同じようにあたりをカメラに納めていた。そこはボルガノーネという駅かなぁ?再度スイスに入るときには前もって集められたパスポートを返してくれた。国境の入管と出国の印が押されていた。
ここまでの間にドモドッソーラというイタリアの街を通る。
ここで、私は、夜の宿に電話を入れに電話機を探し、日本の夫にも電話を入れた。宿はズーリッヒ(チューリッヒ)。
遅くなるので、部屋がなくならないように架電してホームに戻る。
あっ!置き忘れをしている!予定表やら住所やらのクリアーファイルを電話機のところに!
おじさん!この荷物見ていて! 近くにいたスイスの人やらはわからないが、声をかけて私は階段を駆け降り、電話コーナーへ。
あった! また走り階段をかけのぼった。ありがとう!(多分日本語)するとおじさんがいう。『この電車10分遅れているよ。』
電光掲示板のような立派なものではなかったが、確かに十分遅れ、がわかる。フウフウいう私の心臓を休めつつ、忘れ物があったことを
おじさんに伝えた。
このおじさんはどこの駅で降りたやら。ずーっと見張っているのもおかしいので、そのせいで見失った。
フィラデルフィアから来たという親娘は、確か途中で下車。乗り換えで、ルカロ(イタリア)に行くと言っていた。
ときどき思い出すドモドッソーラ。何語でお願いしたのやら。おじさんは私のスーツケースの側で立って私が戻るのを待っていてくださった。痩せた、あまり裕福そうではない風体だった。ドモドッソーラ。思い出の駅のホーム。ありがとう!
あれからもう2回スイスに行った。ニューヨークのJAIN ギャラリーのMr.Jainや彼が扱う作家のフェルナンドさん、サンドラさん、シンチィアさん、バルビさん夫妻と。オランダのニコルさんともスイスフェアでお会いした。
いつの日かモントルージャズフェステバルに行きたいね と希望を語っていた夫とのモントルーへの旅は最早出来そうにない。
列車乗り場は船を降りた道路からエスカレーターに乗り、2階?から出ていて、いろいろとカルチャーショックの旅だったのでした。
長くなるが、このときのズーリッヒの最後の夜の遅い時間帯に ”今宵は月も綺麗だし” という美しい若者との出会いが 、帰宅後に
『桜 月』という絵になったのである。月は出ていなかった夜でした。
6月の我が庭に咲く山紫陽花を載せました。