豆冊子「をんなの時間さまざまⅩⅩⅩⅢ」
19才の頃から始めた短歌。婦人公論に投稿したのは、多分大学卒業後。宮柊二選で、たまに活字になって婦人公論に掲載された。大濱家にいるときであった。
油絵を描き始めて暫くは忘れていたが、ニューヨークへ2回目に行く逗子駅で突然、詠み始めた。夫が何時もの様に見送りをしてくれ、「このたびも 夫(つま)が
見送りありがたし神仏の加護あまた携へ」と。電車が出て、直ぐに書き留め、成田到着後もなにやら歌 らしきものが 57577で、出てくる。成田で出会った「ケン」
と云う青年は、勝手な想像を許して貰えるなら、キリスト・クライストのような容貌。で、この美青年ケンのことも歌にした。オープニングパーティにも彼は来てくれて
日本語が分かるし、展覧会は私の手作りのお団子の所為もあって、とても良い思い出の、マンハッタンのお話し。
さて、それから絵のほうは、「をんなの時間さまざま」で、歌のほうも相変わらず、同じタイトルに決めて続けて来た。
今年初め、100首の豆冊子を作ったが、紙の枚数が多すぎ、ホッチキスで苦労した。一度では済まないのであった。ひどいときには5回もやり直しを。
ホッチキスの針の痕が醜くなって、私自身が腐ったことである。
それで前回の32号は表紙も併せ、10枚にし、今回の33号は、81首。表紙ともで12枚。100首のときよりは、2枚少ない。
今日、表紙のみを印刷注文。その間に中身をコピーしようと準備中。
せっせこ作る私に夫は “あなたは金になら無いことするの 好きだねぇ” と脇で言いつつ、2万本のホッチキスの針と、新しいホッチキスを黙ってアマゾンで買ってくれる。
失敗があって、大部ホッチキスの針が減ったけれど、まだまだ随分とある。
33号の表紙、裏表紙を夫 「金城」 にしてみた。初めで最後でしょう。春の日に菩提寺で、紙切りの奉納があったのだが、1984年に金城がモデルになり、切って下さった
2代目林家正楽さんのお孫さん、八楽さんのご登場。それで、切り絵を持っている私は、表紙にしようと思いついたわけ。それも、表は私の絵で、裏に切り絵を。
31号、32号、33号とこれまでよりは歌数がおおいのです。33号をこの辺で作らないと、既に次の歌が20首あって、ホッチキス騒ぎになるので、慌てて作ります。
その表紙と裏表紙を掲示します。