ポール・アンビーユ氏の批評文
フランス語、英語、そして日本語です。訳してくださった馬郡俊文氏の語彙の豊富さで、アンビーユ氏の詩のような私への餞(はなむけ)でした。
感謝しております。ご冥福をお祈り致します。
フランス語、英語、そして日本語です。訳してくださった馬郡俊文氏の語彙の豊富さで、アンビーユ氏の詩のような私への餞(はなむけ)でした。
感謝しております。ご冥福をお祈り致します。
フランスの美術界の大御所、ポール・アンビーユ氏が亡くなられたとのこと。7月3日がご命日。享年80歳。3日前に知った。沢山の思い出がある。優しい人だった。
1989年にポール氏のクレルモンにある庭園で10号サイズを5枚、4号を1枚仕上げたことがある。雨のときには馬小屋ににげた。2週間のエコール参加。ここから私の絵画が始まったといっていい。なんとか5枚を仕上げようと必死になって、寒さと闘い、筆ふきのペーパーを身体に巻き付けていたが、その紙が脇からはみ出し、恥ずかしいので思わずキャンバスに貼り付けた。コラージュの始まりだった。一枚の5号サイズの絵を提供してくださったポール氏のご褒美の絵をわたしはとうとうじゃんけんで勝ち取った。じゃんけんには全く弱いのに、あの時だけはどうしたことだろう。10人以上はエコールに参加したから、はじめから私に下されるとは思わなかった。今も我が家の他のポール氏の絵画と共にコレクションしてある。最後の日の午後は批評の日であり、じゃんけんの日だった。
エコールを企画してくださった欧州美術クラブ代表の馬郡俊文氏の名訳と共に次にポール・アンビーユの批評文を披露したいが長いので後で、といことで本日はおわりにします。ポール・アンビーユ氏に感謝の念を表して。
平安管弦船ありがとう。画像入力は又今度に致します。
今年も京都のもみじ祭りに参加してきた。嵐山の紅葉が例年よりも美しかった。第2日曜日が14日と、中旬までずれ込んだためでしょう。お天気は上々とはいかなかったが、暑くもなく寒くも無し。薄曇り。風はそよかぜ。渡月橋の上流。大堰川は観光客であふれ、午後はボートも沢山出て、平安管弦船を操る船頭さんの竿捌きに感心。私は午前はカメラマンをご奉仕。祭りを彩る船の数が少ないので、観光客の視線が集まる。緊張感があって爽やか。午後は葵と橘の模様の衣裳を着付けしていただき、角倉了以の母親の役。
午後カメラを担当した夫は普通のカメラが嫌い。で、途中からカメラが壊れたといってデジカメを使用。カメラが動かないという。だだ単に36枚撮影が終了しただけ。ずーっと
使用していなかったので、忘れたらしい。私はデジカメ嫌い。どちらの写真もまだ見てはいない。
13日は朝早く願成寺にお参り。阿保親王様の墓陵に御挨拶。3日のご開帳日には欠礼しているここ2年のお詫びを申し上げる。明石和尚さんが私達のためにお取り置きくださった御幣を頂戴する。有り難い。丁度炭点前の最中に小半時おじゃまをして昔のこと今のことを語り、ちょっと大きく育った芭蕉の木を眺めてお暇。
やはり上賀茂神社が外せないので、先に御祖下鴨神社をお参りの後、上賀茂神社に。葵の苗の里親にしていただこうという目的の下、担当の権禰冝さんに運良くもお会いすることができ感謝。
翌日の午後には葵の模様の衣裳で平安管弦船に乗船でき、本部席での式典に代理で出席させていただいき、今年のもみじ祭りは記憶に残る一幕。
15日は奈良に。平城京遷都1300年祭をお祝いして信貴山玉蔵院に御神酒を奉納した際に私の絵画から「My Birthday・青い雪」のラベルでご奉納させていただいたが、その御神酒が運良くも本殿に奉納されているところを目の当たりに出来て、これも大感謝。信貴山の紅葉はとても見事でした。聖徳太子が毘沙門天を感得したお山に訪問が叶いました。
阿保様のおもうさま 平城天皇のご陵には今回は参りませんでした。次回に参るところが無くなっては目的がありませんので。自動車道の右手にご陵を感じつつ帰りました。
9月27日〜始まって一月半に渡った宮城県での展覧会が終了した。家を出たのが9月23日。義母の祥月命日でもあるお彼岸のお中日の法要を済ませて出発。11月5日の真夜中、丑三つ時に帰宅。夏服から冬服に変わって、多いに寒い思いもした。従弟の家でも弟の家でもストーブやら炬燵が出ていて、冬支度。宮城県迫桜高等学校での創立10周年記念展では初日に有賀小学校の児童教職員合わせて72名が訪問。母校の児童に抽象画の説明をした。音楽もお菓子もいわば抽象の世界。ということなど話す。そのまま町中の“あめやギャラリー”にもバスで移動していただき、たったひとつある町のギャラリーにご案内。一度期に72名もの大勢さんが入ったことなど皆無。ギャラリーのオーナー伊藤雄三氏は花火を打ち上げたかった、花火を打ち上げたかった、と2度云われ、嬉しさを語っていた。次代を担う子供たちが、「町にはギャラリーがある」ということの認識をいだいてくれたことが本当に良かったことなのだ。あめやギャラリーには高等学校時代のグループが35名まとまって訪問してくださったがそれを含めて350名程の方々にご高覧いただいた。
岩手宮城内陸地震のさいに崩落した荒砥沢崩落現場での絵画教室は、子供に大人の参加者を入れて60名ほどの大勢。お天気も良く、地元の長老5名の見守る中で、蛇のひなたぼっこもあったりして、 NHKのTV,仙台放送のTV,河北新報、大﨑タイムスが取材、報道して下さった。事前には毎日新聞社が取り上げて下さっての前宣伝も有り難かった。
子供たちには「顔がそれぞれ違うように、イメージも違うはず。自分のイメージを大切に、他人(ひと)真似ではないものに挑戦。他人のイメージしたものを尊重しよう」と。それが世界平和に繫がればと願っている。
仙台市での個展は初めて。10年程以前にグループ展があったが、同会場。まぁはじめての気がしないのはオーナーとは顔みしりの所為。いろいろと公私にわたって面倒をお掛け致しました。ありがとうございました。面倒をお掛けしたと云えば仙台市の名士・神永久雄氏ご一家。並びに河童亭の二代目久次郎氏、店長、親方。夫と延べ8回も。大変ありがとうございました。熊のクマソバ。美味しかったです。瓶覗き。私は運転手で飲めずにとても残念でした。サンマのお刺身、その他活き造りありがとうございました。
仙台市では従弟の家一軒をかりました。これもとても有り難かった。自炊しました。といっても夜はほとんど河童亭でしたから、朝、つくりました。ハイ、パンを焼いたりだけでしたが。弟夫婦が持たせてくれた炊飯器とお米も最後の数日間は使いました。姉がゴーヤーの佃煮を送ってくれご飯の共に良かったです。どなたもありがとうございました。
ところで同好会の「かっぱ村」の35周年記念祭も兼ねて仙台市に集まりましたが、遠くからは京都、秋田、東京、静岡・下田、郡山、横浜、二本松からありがとうございました。かっぱ村についてはこれくらいに。
若柳から仙台市に観に来て下さったかた、仙台市から若柳に観に来られた方、京都や東京からいらして両方ご覧くださったかたとさまざまでした。長い期間お邪魔をいたしました故郷での展覧会、大盛会に導いて下さった多くのご協力者のみなさまありがとうございました。なかでも従弟の鎌田兄弟、弟の家族、同級生の二階堂富也さん、あめやギャラリーの伊藤雄三さんとその仲間のかたがた、ブログでお礼申し上げます。
十五夜。星を従えている。あんなに明るい月の左下に。月が明るすぎるから他の星は見えない。☆を従えた月。私の好きな夜空のありかた。いつまでも、月の消ゆるまで見続けていたい。
さて、宮城県迫桜高等学校と若柳のあめやギャラリーそして仙台市での展覧会がはじまる。ここしばらくはその準備に追われた。今日午後暑い中を車に積み込んだけれど、80号サイズが入らない。50号3点30号2点、その他宅配になった。3箇所だからごもっとも。家中がダンボール箱だらけ。ダンボールの箱との格闘に疲れて、夜空を仰ぐ。今夜はゆで卵を外の月の下に。月の雫をいっぱいに受けたゆで卵をいただくのです。
明日から11月5日まで田舎と仙台市におります。遊びにいらしてくださいな。
平城遷都1300年記念ということで信貴山玉蔵院御神酒奉納収蔵展が9月10日〜11日におこなわれる。奉納式典は9月12日午後2時。というご案内状が50枚も届いた。「平成史上に残る日本芸術遺産作家130」に有り難くも推挙され、指定された作品は「青い雪」/My birthday であった。50号の作品で既にニューヨークの常設画廊の主、Mr.Jainが
コレクションに加えてくれた物。日本に戻っては来ないので、新作であったこと等を含め御神酒のラベルとして末永く保存されることをお受けした。
第51代平城天皇の皇子、阿保親王の眠る京都東福寺塔頭願成寺親王堂にご奉納しておよそ5年。奉納の約束からは15年が過ぎる。今年7月25日には高山市の袈裟山千光寺に参り
平城天皇のもう一人の皇子高丘(真如)親王開基のお寺に足を運んだ。京都嵐山大悲閣千光寺に奉納予定があって、千光寺とか、阿保親王のご兄弟という関連から無視出来ないものがある。一昨年は、阿保親王さまとお妃伊都内親王、そして息子在原業平の3人が眠る大原野の墓所をお参りした。と同時に、第50代桓武天皇の神社にも参詣。いまだ第51代平城天皇の墓所におもむくことが出来ずにいる。奈良。チャンスであるのに、奈良市佐紀町にじ山。平城宮跡のすぐ北。
貧乏絵描きの悲しさ。計画予算が立たない。奈良に行くことが出来たときには石上神宮にも在原神社にも、そして西行が庵を結んだ吉野の山奥にももう一度と欲張るから自分でもあきれる。橿原市や斑鳩には自転車を走らせて巡った。若い頃。もう自転車は無理かもしれない。往復をいれると5日間。西行の庵は一人では行かれない。小径すらない。
20年以上も前に行ったときには、ぼやぼやしていて、歌さえ作らなかった。岩清水が流れていて、一本の桜がまだ花をつけていた。やはり今一度行きたい。