富山の寿司屋さん
連れて行っていただきました。
おもしろや
大間のまぐろ北仏の塩
遠く来て遙かな大間のマグロ食む
塩はモンサンミシ ェ ル産とふ
気合あふ親子の寿司屋
ネクタイの模様小柄の色違ひなり
神奈川から富山へ、
一緒に行った名付け子の
加奈さんは、只 ただ吃驚。
今、御嶽山が水蒸気噴火で多くの登山者や登山愛好家が被害に遭われ、死者も多く、火山灰に覆われ見つかっていない遭難者がおられるという時に、心からお悔やみ申し上げますとともに、ご冥福を祈ります。 さて、一週間前に焼岳に行きました。上高地にも行ったのです。夫は今年2度目の上高地。数え切れないほど来ているという友人は、こんなに晴れ上がった日はめずらしいわよ。と。とにかく雲ひとつ無い。ロバの耳やジャンダルムもくっきり。振り返れば焼岳。こちらも見てみて、見て!。 わたしは初めての上高地。いつもこんなだろう、と思ってしまう。穂高連山、焼岳、河童橋。朝早いこともあって、ひとが少ない。 運転は、最近は包丁よりもハンドルを握ることの多い、総料理長。総料理長さんはお宿の主から言われた集合写真を撮ること、の プレゼントのために、河童橋のたもとで、わがままな我々、バラバラ状態の客を待って居て下さる。 そこでまづは記念写真撮影。岐阜大学のドクター夫妻、お宿の主の友人、我々とわたしの名付け子。6にん。みな晴れ人間。わたしはボタンのかけ違いがクッキリと記念写真に残る。夫はいつものことと、教えてくれず。その夫が先頭をぐんぐん行く。どうも明神池まで行きたそうな気配濃厚。帰りの時間は考えていない様子。声に立てて、呼び止め、良いスポットまで行き、引き返す。夫は朝からすき焼きを食べているんだったわ。 お宿の主のお薦めのケーキを食べに、ホテルへ総料理長のご案内。大きめのコーヒーカップでコーヒータイム。 総料理長では長すぎるので縮めて、総長。早朝よ!ということで、車の中では総長。総長も新発売のフルーツの盛り合わせを、味見。流石、総料理長。 途中の大正池でも、わがまま部隊は総長にストップを、おネガイ。 帰ると、お宿の主は待ちくたびれていて、普通は2時間もあれば帰ってくるのに! こんなに長い間待ったことはないよと、ニコニコ。我々は4時間余り。 遅めのランチにご自慢のインドカレーを戴く。 前日の夕刻に展示したわたしの絵「花かざり」の前にレストランにいた皆で集合。集合写真に収まった。 (朝早くにブログ・その文章全部をボタン一つで消滅。ゴミ箱にも無くて、再度ブログ。二度目はなんだか、少々雑?で、短い)
先日、上記の展覧会報告書が届いた。ドイツはシャルロッテン宮殿で、日本は池袋東京芸術劇場でそれぞれ開催されたイベント。ドイツには生憎と行かれなかったが、池袋東京芸術劇場には、出かけてみた。 ドイツからお客様がいらしていたので、敬意を表して。 アーティストを代表して、スチューデント氏、カトリーナ氏が、日独協会事務局長のシュミット氏は、流暢な日本語を話されて、日本の隅々を旅行されたお若い頃の思い出を交え、挨拶下さった。8月22日の夜でした。 もうすぐ、ドイツでのフェアーがはじまる。 スマートシップギャラリーから、小品5点を出品している。 17日から21日まで Postbahuhof/Berlin が会場。 ご案内します。 写真は「絆展」のものです。
7月23日、千葉県館山市に叔母宅を訪問。かねてより、お祖父さんの書を一幅あげるから取りに来るように、との話があって、
頂きに行ったのです。いくつか自分の母親が押入れにしまいこんでいるなかから、貰い受けてきたのだというもの。
叔母さん宅の床の間には、「天照大神」の一幅があって、79歳の時のもの。稲穂を束ねて書いた書もあったけど、人にあげちゃった
のよ。と。いまの私にとっては、是非にも欲しいものだったが、遅すぎた。
母の妹の気の変わらないうちに、「教育勅語」しか残っていないんだけどね、ということで、フェリーに乗って、頂いてきたもの。
ブログします。80歳のときの書です。
近くに金鶏山という山があり、金成吉次が平安時代に京の都に金を運んだ、金のとれた山でした。
その山から師匠にいただいた銘が「鶏山」です。
8月28日、ロシア芸術協会よりエルミタージュ世界芸術遺産作家選考委員会 選考委員長 クリスチィーヌ・モノー氏
ということで認定証がとどいた。
エルミタージュ美術館開館250年を記念しての行事とのこと。
日付は今年平成26年3月1日とあって、およそ5ヶ月前には出ていたことが分かりました。
認定内容は「 エルミタージュ世界芸術遺産作家」 と。
ご報告いたします。
23日の午後、横須賀市で、沖縄のイベントがあるというので、夫のお供で出掛けた。車を預かってもらうために、親戚に連絡すると、諏訪神社の
お祭りがあるという。とにかく出掛けてみると、御柱祭が始まりそうな時刻。これまでは無かったということで、見物。大勢の関係者、見物人で、
あふれてい、雨が降っていたのですが、神事が始まる頃には雨は上がりつつあって、2時、いよいよ御柱引きという時、雨はすっかり上がり、
まるで禊の雨。御柱を引く時には、良く滑るように水を撒くのだそうですが、その必要もなく、喉が渇くこともなく、すっかりはまって見てしま
いました。
午後4時ごろに、神社の参道真ん中あたりで、御柱は止まったまま。私たちには段取りは判ろうはずもなく、この後どうなるものやら、明日、
御柱は建つというので、帰りました。沖縄のイベント行きは中止です。
翌朝夫は氏神様の幟降ろし。先週の日曜日に祭礼があったのです。9時から10時半の作業を終えて、シャワーを急ぐともなく急ぎ、やっぱり見に
行こう!
2時ごろに御柱が立つらしい、と聞き、充分まにあうと、安心。
しかし境内は人で溢れて、人の頭越しにしか見えず、見えるのは、大型クレーン車のみ。
昨日、御柱を引く人たちが本場の茅野市宮川のプロ集団180名ほどの団体で手伝っている、ということを、勝手なインタビューで、知り得ていて、
御柱のV字形「メドデコ」(にわか調べ)にのる宮川のプロの技や、直角に曲がる道では皆、不安でいっぱいだったが、難なくクリアして思わず拍手
喝さい。再来年にあるという本場諏訪市の御柱祭を見に行く約束を3人ばかりの宮川の人たちと交わしたりした。
さて、昨日 「メドデコ」の華にのっていたお兄さん、御柱の天辺にのって高く真っ直ぐに建ったとんがりに両手を広げている。
今日も英雄です。
アナウンスの万歳三唱を唱和の案内に、お兄さんの声が大勢の人たちの処に降りてきます。
大きく響き渡る声に合わせて境内は万歳、万歳、万歳。
10年後の創建1200年の節目を記念したもの、とあった。
夫と諏訪大社に参詣したことはあったが、祭りのときでは無かった。本当に一度本物を見に行きたいものだ。
7月19日のスーパーカミオカンデ見学のあと、温泉に行きましょうというお誘いを受けて、神岡町の知人のご案内で車を走らせた。およそ1時間。
奥飛騨温泉郷の新平湯「焼岳」に到着。まぁ途中の与平小屋(これも知人の温泉)に寄って、〆切の家に風を通したから、その時間は差し引いてだが。
「焼岳」!? 到着してすぐ、ここには3年ほど前に一度来ていることがある?。確か、露天風呂が混浴。そうでした。
神岡町の知人、加藤さんの実に親しくしておられる方が社長さんで、女将さんとも勿論のこと親しい間柄。
加藤さんと我々は温泉に浸かった後は、右と左にお別れの予定で、女湯と男湯に入ったのです。夫金城は長〜湯。私たち女組はカラスの行水。
金城の上がって来る間に加藤さんは、マッツサージを15分ほど、といって、マッツサージ室に。
私はソファで居眠りしつつ、二人の終了を待つ。
ここからは、パプニングの始まり。加藤さん、マッツサージを終わったならばそっと帰るということで、ほんの短い間のつもり。カーテンの隣に
は社長さんがマッツサージを受けているとはつゆしらず。で、途中に、カーテン越しに、声が掛かる。“加藤さん、食事、3人分準備してあるから
食べて行きなさいよ"と。
この辺は街灯が薄ぼんやりで怖いから早く帰る、としきりに言っていた加藤さんと、私たち2人は、素敵なレストランでのキャビアやらインド
カレーのすこぶる美味しいお料理を頂いたのです。
そろそろ食事が終わろう頃合いに、社長さんがレストランに現れまして、ご挨拶。
美味しいお食事のお礼を申し上げたのです。と、いろいろ館内のご案内をいただき、合掌作りの離れ「朧」や
お食事棟もみせていただき、発想の素晴らしいホテルの設備にため息が出ました。敷地内の清流には、チョウザメが泳いでいるのです。
焼岳の水が流れている。夜目にも透明な水が滔々と。
もう21時も過ぎ、そろそろおいとまの刻限。
社長さん、夜道を怖がる加藤さんに泊まって行きなさい。と、我々のお部屋も準備してくださって、私たちは3人で2時まで、おしゃべりを
楽しみました。社長室で。23時過ぎまで社長さんの夢を聞かせていただき、女将さんも仕事上がりに、話の輪に加わっての、いろんなお話
でした。絵画についても聞いてくださったのです。
明朝9時にフロントでの再会を約束して、散会。
私たちは3人であまりの幸運を話し、2時まで起きてしまいましたが、翌日は、チョウザメや鰻、スッポンの養殖場にご案内いただき、
スッポンの生みたて玉子をご馳走になったのです。たらふく朝食を済ませたあとでしたが、濃厚な味わいの玉子でした。
セレンデピティ、超の付く幸運なハプニングの連続をいただき、加藤さんには本当に感謝です。
もちろん社長さんご夫妻にも、近年にないものをいただきました。有り難うございました。また参ります。
8月3日に老衰のために死去。97歳と新聞記事にイベット ジローさんの死亡記事を見た。 私たちはジローさんのゼネラルマネージャー田中朗さんに依頼されて、ジローさんのコンサートを3回主催した。 無類のミュージック好きな夫は、話があった時に、即座にオーケーした。 会場は出来たてのホテルが近所に。直ぐにホテルの支配人にお会いし、快諾を得、1987年の11月11日に第1回目のコンサートが、実現した。 ホテルのロールスロイスで、JR逗子駅までお迎えし,お送りをした。 スイートルームにお泊まりいただいたが、大きな花束はお断り、とおっしゃったジローさん、小さな花束であっても バスタブにお水を張って、花を水につけて帰られた。 コサージとブーケを準備したが、それはお持ち帰りくださって、私を喜ばせてくださった。 翌1988年のコンサートも、同じホテルで開催。 大勢のファンの人たちに囲まれて、サインをしたり、一緒に写真におさまったり、大舞台は無い会場でのコンサートは、肩のこらない、アット ホームな雰囲気漂うシャンソンタイム。 ご主人のマルク エラン MARC HERRAND のピアノは抜群。ご夫婦、とはいえ、私は2回目のコンサートのはじめに 「MARC HERRAND 」という絵を即興で描いて差し上げた。小さな作品だったが、勿論抽象画。写真に収めていなかったらしく 、見当たらないのが残念。 GIRAUD ジローさんが80歳のときに引退公演を日本中で開催なさった時にも、やはり、主催したのだが、1996年12月5日は大嵐の一日。 音合わせをするお二人は、大窓の外で荒れ狂う海の様子を愉しまれて、エランさん曰く「嵐が丘」ですね。このユーモアにはとても救われ たのです。 さて、 この大嵐の台風をものともしないお客様たちは、ずぶ濡れになりつつも、予約の全員が揃う盛況。京都市からのお客さまは、濡れた着物 を着替えられて、変身。ずぶ濡れがシャキッとおなりで、ホテルの人達を驚かせたのですが、運良く、主催の夫、金城が玄関先にいあわせ、 声を掛けて、こと無きをえたのでした。今も時にその思い出を語っている。笑い話になっているのです。 お住まいのフランスのカオールから、度々お手紙を頂きました。必ずお写真も同封されていたので、ジローさん、エランさんのツーショット は数枚あるのです。ジローさんの著書「幕が下りる前に」(1999年11月)の最後の方に「特に記しておきたい方々」、ということで我々も 挙げてくださっている。葉山の画家ご夫妻と。 ジローさんのファンのなかには、遠くで見ているだけで良い、とおっしゃって、せっかく近くでお話も出来る距離におられるというのに、 ご遠慮なさった方がおられました。飛行機で駆けつけられた遠路からのお客さまでした。 ジローさんのコンサートは、本当に愉しいシャンソンの夕べでした。エランさんはジローさんより10歳お若い。お元気でしょうか? 気になるところです。 ジローさんのご冥福をお祈りいたします。
横浜の日本丸を背に、今日は大学時代の先輩、後輩と同窓会です。