エジプト続き

エジプト続き

当時ニューヨークの日本クラブに勤務しておられたトム・ドノバン氏が、エジプトで困ったことがあったときのためにとカイロに住むイワネスキーさんを紹介してくれた。アスワンから戻った私はナイル川クルーズのオプションで一人旅のチリー人女性と出会った。日本に住んでいると言って日本語が上手。ドイツ人の父親とチリー人の母親の間に生まれた背高のっぽの美人。これから先の旅はズーット一緒に行動することになる。そういうことになり、イワネスキーさんに電話を入れてみると、明日の朝一緒に朝食を。と快い返事。友達を連れて二人で行くことの了解をいただき、シアグ・ピラミッドに泊まっているレヒナに連絡。翌朝一緒に約束の11時に少し早いが伺った。若い奥さんが出迎えてくださった。お互いの紹介の後、広いアラブ式ハウスをみせてもらっているところに、大きなケーキの箱を掲げた主イワネフスキーさんが帰ってきた。丁度11時。イワネフスキー夫妻はアメリカ人。陽気なカップル。私とはどうも同い年。ニューヨークのトム・ドノバンさんも大体そんな年に違いない、と勝手な結論になった。そこにアラブ人の友人が訪ねてきて、4カ国の人間同士で写真撮影。お茶とパンとケーキでブランチ。レヒナが空手と柔道2段という話しになり、イワネスキーさんの、友人とちょっと取っ組んでみてよ、との注文に怪我をするからとレヒナ。背の高いアラブ人はホッと胸をなで下ろしていた。アメリカ人夫妻は運転手に命じて私とレヒナをダウンタウンの繁華街まで車を向けさせ送ってくださった。道々私たちはハッピーと言い合った。レヒナは渋谷をちぶやと言い、忠犬ハチ公のことを、イヌね、という。初めは解らなかった。でも十分にお互いが日本語で話せる。レヒナは日本人が、日本が大好きという。最早渋谷にはいない。チリーに帰った模様。アレキサンドリアに行くという私に付き合って、例の若者をガイドに、バスに乗って3人で出掛けた。アレキサンドリアでは新たな運転手が待ち受けていて歩くことはなかった。1日のアレキサンドリアの旅で、博物館めぐり。写真の要塞は生憎と閉館で地中海の海を眺めてお仕舞い。イタリアのソレントから見た地中海の海と思うと不思議。この海の底から色々と繁栄していた時代の遺跡が見つかり、話題を提供し続けている現代を私は生きている。ツタンカーメンのマスクも見て、壁画がダメージ少なく、残っているのは、時の王様の長生きの恩恵(在位期間の長さ)で、急ぎでなく、丁寧に描いたからという説明を聞いた。王の短い命は壁画もクイックリーに描かれたために今に残っていないか、ダメージが激しいとのこと。  このアレキサンドリアの旅のあとレヒナと別れて帰国の途に。これがまたびっくり! 空港で警官が何故か私を連行。? ズーット後で理解出来たのだが、エジプト大使館でもらったはずのビザは私の申請した日付を全く無視。既にとーの昔に終わっていて、ビザなしで私は9日間滞在していたと知る。そのときは全くなにがなにやらわからず、 どこから来たというから、ニューヨークから。何処に泊まったか。ヒルトンに。証明出来るか。さっきもらった長ーい領収書の束を見せると、チケットは。幸いビジネスクラスのチケット。件のお偉い警官さん、行っていいという。時間がかかったが、訳は言ってくれなかった。エジプトは1週間以上の滞在にはビザが要る。今エジプト大使館の証明を見ると'93年12月とある。'94年2月か3月でないといけない。とにかく面白い旅だったのです。お仕舞い。

アスワンのホテルで。日本食の看板にビックリ。
アスワンのホテルで。日本食の看板にビックリ。
切りかけのオベリスク(切り出しに失敗したので真ん中に傷。で、そのまま)
切りかけのオベリスク(切り出しに失敗したので真ん中に傷。で、そのまま)
一人旅の終わりはアレキサンドリア。地中海の海の碧さというか空の蒼さ・撮影/レヒナさん
一人旅の終わりはアレキサンドリア。地中海の海の碧さというか空の蒼さ・撮影/レヒナさん